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第2話「夜の司書の条件は、秘密を守れること」 Part 3

 お茶会のあと、最初の「司書の仕事」がやってきた。


「大変なことが起きたの!」


 アリアが一冊の本を抱えて走ってきた。零が「走るな」と言ったが完全に無視された。この子に「走るな」と言うのは風に「吹くな」と言うのと同じだ。


「見て! ここ! ページが折られてるの!」


 開いたページの端が三角に折り込まれていた。いわゆるドッグイヤー。しおり代わりにページの角を折る行為。やる人はやる。でも本にとっては……


「裁判ね!」

「なんで裁判?」

「有罪!」

「まだ何も始まってない」

「退屈罪と器物損壊罪の併合罪よ!」

「刑法に詳しいね」

「不思議の国では裁判は日常茶飯事なのです」


 紫乃がそっと補足した。


「アリアさんは判決から始めるのが流儀でして」

「先に有罪って言うの逆じゃない?普通は審理してから」

「異議あり! 異議あり!」

「誰に対しての異議なの」

「あなたに!」

「被告にも弁護人にもなってないんだけど」


 零が額を押さえた。


「いいから黙ってページ直せよ」


 詠は折れたページを丁寧に開いて、指先でそっと折り目を伸ばした。完全には戻らない。紙には一度ついた線が消えずに残る。白いページに薄い影のような筋。ほんの小さな傷だけど、確かにそこにある。触れるとわずかに段差がある。この本を読むたびに、誰かの指がここを通る。そのたびにこの傷に触れる。


「本に傷がつくと……誰かが痛いのかな」


 独り言のつもりだった。


「……そうだよ」


 声がした。近い。振り向くと、さっきまで窓際にいたはずのジョバンニがすぐ後ろに立っていた。いつ移動したのかわからない。この人はいつもそうだ。気配を消して現れる。幽霊みたいだって、幽霊とは違うけど、人間でもないのだった。


「折られた跡は消えない。でも、誰かがこうして直してくれると、痛くなくなる」


 暗がりの中で目が光っている。星みたいだ、とまた思った。何度見ても慣れない。慣れたくないとすら思う。


「……ジョバンニ」

「ん」

「それって、本の話?」


 少しだけ間があった。ジョバンニの目が詠をまっすぐ見た。


「……本の話だよ。他に何の話をするの」


 そう言ってジョバンニは窓際に戻っていった。足音がしない。声だけが空気の中に残っている気がした。甘いような切ないような残響。

 詠はしばらくその場に立っていた。心臓がとくとく鳴っている。本の話、と彼は言った。本の話。じゃあなんでこんなにどきどきするんだろう。本の話でどきどきするのは詠にとって日常だけど、これはいつもとちょっと違う種類のどきどきだった。


「で。どうする」


 零の声で我に返った。壁にもたれて腕を組んでいる。


「どうするって」

「折り目をつけた犯人探しでもするか」

「しない。犯人がどうとかじゃなくて」


 詠は少し考えた。


「しおりを作って図書室に置いておく。『ページを折らないでください』って貼り紙をするより、しおりが手元にあれば折る理由がなくなる。禁止するより原因を潰す方が早い」


 零が一瞬だけ目を見開いた。ほんの一瞬。すぐにいつもの表情に戻る。


「……まあ、悪くない」

「褒めてる?」

「読めなくはない案だって言ってる」


 紫乃がくすりと笑った。


「零さんの『読めなくはない』は最上級の褒め言葉ですよ、詠さん」

「うるさい」


 零が顔を背けた。耳の先が赤い気がしたけれど、薄暗いからわからなかった。


「しおり作るなら私も手伝う!」アリアが手を挙げた。「デザインは任せて! トランプ柄にする! ハートの女王様を描くの!」

「もうちょっとシンプルなのがいいかな……」

「却下! シンプルは退屈罪!」

「退屈は罪じゃないよアリア」


 七時半。そろそろ帰らないと母との約束を破る。


「じゃあ、帰るね」

「明日も来る?」


 アリアが上目遣いで聞いた。


「……来る」

「絶対?」

「……絶対」


 言ってしまった。「絶対」は詠が使わない言葉だ。いつ離れるかわからないのに、約束するのは不誠実だとずっと思ってきた。でも口から出た言葉は取り消せない。取り消したくもなかった。

 紫乃が「お気をつけて」と扇を持ち上げた。零は「さっさと行け」と素っ気なかった。ジョバンニは窓際から小さく手を振った。その手が少しだけ透けて見えた気がしたけど夕暮れの光のせいだ。きっとそうだ。


 帰り道。四月の夜風がまだ冷たい。商店街の明かりが遠くに見える。

 スマホを取り出した。SNSの読書アカウント。フォロワー二十三人。クラスの誰にも教えていない秘密の場所。短い書評をぽつぽつ投稿するだけの、小さな小さな場所。

 今日の出来事は書けない。秘密だから。夜の司書の最初のルールは「秘密を守ること」。

 代わりに一行だけ打ち込んだ。


「本棚の匂いが好きだ」


 投稿してすぐ画面を閉じた。誰かに届くとは思っていない。二十三人のフォロワーのほとんどは動いていないアカウントだ。宇宙に放った瓶詰めの手紙みたいなもの。

 五分後。通知が光った。いいねが一つ。

 いつも同じアイコンだ。でもこの人だけは、詠が何か投稿するたびに最初にいいねをくれる。毎回。一度も欠かさず。まるで画面の向こうで待っていたみたいに。


「……誰だろう」


 声に出して呟いて、少しだけ笑った。どこかに、本が好きな誰かがいる。


 家に着いた。部屋のベッドに座ってスマホをもう一度開く。今度はSNSじゃなくて、クラスのメッセンジャーアプリ。未読のメッセージが溜まっている。たいした内容じゃない。明日の持ち物の確認とか、誰かの猫の写真とか。

 莉子からの個別メッセージがあった。


「柊木さん、今日のバレーお疲れさま! サーブ、次はきっと入るよ!」


 ガッツポーズのうさぎのスタンプ。昨日の夜に届いていた。既読すらつけていなかった。

 紫乃の声が聞こえた気がした。


「怒っていなくても、悲しんでいるかもしれませんね」


 指が動いた。


「ありがとう。明日また教えて」


 送信。たった十三文字に三十秒もかかった。

 すぐに既読がついた。すぐに返事が来た。


「もちろん!!! 任せて!!!!」


 びっくりマークが七個もある。莉子のメッセージはいつも元気だ。嬉しいんだろうか。たぶん嬉しいんだろう。たった十三文字で誰かが喜ぶなら、もっと早く打てばよかった。


 スマホを置いて、枕元の文庫本を見た。「詠へ」。父の字。

 明日はしおりを作ろう。図書室の本が傷つかないように。それから莉子にサーブを教わろう。入らなくてもいい。教わるということは、頼るということだから。

 「頼る」のやり方はまだわからない。でもわからないまま手を伸ばしてみるのも、悪くないかもしれない。あのお茶会がそうだったように。百三十円の紅茶を五本買うだけで、誰かが「温かい」と笑ってくれるのだから。

 眼鏡を外した。世界がぼやける。天井の染みが柔らかい模様になる。でも今日は、ぼやけた世界も悪くなかった。ぼやけた向こう側に、金色の光と、紅茶の匂いと、星みたいな目があった。


 この日、柊木詠は「夜の司書」になった。

 秘密と紅茶とページの折り目。小さな仕事の、静かな始まりだった。

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