第2話「夜の司書の条件は、秘密を守れること」 Part 2
翌日の放課後。許可書を提出して、正式に「閉館後資料整理ボランティア」の一員になった。たった一人の一員だけど。
五時半。最後の利用者が出て、烏丸先生が「じゃあお願いね」と鍵を預けてくれた。「何かあったら職員室にいるから」と言って先生は出ていった。足音が廊下に消える。
図書室に一人。静かだ。時計の秒針が動く音がやけに大きく聞こえる。本棚の匂いがする。紙とインクと少しだけ埃の匂い。この匂いがあればどこにいても落ち着ける。世界で一番安全な匂い。
時計の針が六時を指した瞬間空気が変わった。
本棚の奥から光が漏れた。金色の、柔らかい光。あの夜と同じだ。夢じゃなかった。
心臓が速くなる。でも足は動いた。今日は自分の意思で、ここにいる。
最初に飛び出してきたのはやっぱりアリアだった。金髪のショートボブが揺れる。左右色違いの靴下。昨日は左右とも白だった気がする。毎日変えているのか。エプロンドレスの裾をひらひらさせて本棚の間から現れた。
「来た! 来てくれた! やっぱり来た! お茶会するよ!」
「まず挨拶」
零がくたびれた白シャツのまま本棚の影から出てきた。前髪が目にかかっている。唇の端がいつものように少し上がっている。笑っているのか皮肉なのか、まだ読めない。
「おかえりなさい」
紫乃が深紫の重ね着を揺らして微笑む。閉じた扇を口元に当てている。千年生きた人の笑顔は静かだ。
「……ただいまじゃないです。まだ二回目なので」
「では、ようこそ。」
窓際にジョバンニがいた。黒いコート。ボサボサの髪。窓の外の空を見ている。まだ明るい空に、星はまだ見えないはずなのに。
「ジョバンニ」
「……ん」
「来たよ」
「……知ってる。空気が変わったから」
「空気?」
「……人間がいると、空気が少しだけ温かくなる」
こういう言い方をする。さらりと心臓に触れるようなことを言って、本人はなんとも思っていない顔をしている。詠は頬が熱くなるのを感じて、さっと眼鏡を直した。これは照れ隠しだ。自覚はある。自覚があるからといって止められるわけではない。
「で」零が壁にもたれたまま切り出した。「夜の司書の話」
「もう本題?」
「来たってことは引き受ける気があるんだろ。違うなら帰れ」
「帰らない」
「じゃあ聞け。ルールは三つ」
零が指を三本立てた。
「一、秘密を守ること。俺たちの存在を人間に言うな。二、書人の相談に乗ること。俺たちにも悩みってものがある。三、蔵書を守る取り組みをすること。借りられなくなった本から順に俺たちは消えていく。それを食い止めるのが司書の仕事だ」
消える。紫乃が、アリアが、零が、ジョバンニが。借りられなくなったら消える。三つ目のルールの重さが、遅れて胸に落ちてきた。
「……なんで私がやらなきゃいけないの」
零がにやりと笑った。唇の端だけが上がる、あの読めない笑い方。
「別にやらなくていいよ。でも君、また来たよね。図書委員になったのもボランティアを申し込んだのも、全部君が自分で選んだ。誰にも頼まれてない。違う?」
「……屁理屈」
「理屈だよ」
ムカつく。けど正しい。アリアのメモはきっかけだったけど、足を動かしたのは自分だ。許可書を母に差し出したのも自分だ。
「……わかった。やる」
言ったあとで驚いた。こんなにあっさり何かを引き受けるのは珍しい。転校生は身軽でいるべきだと思っていたのに。荷物を増やさないのが処世術だったのに。
「よし! 司書就任記念お茶会!」
アリアが両手を挙げた。
「お茶がないよ」
「自販機にあるでしょ! 紅茶! 人間のお金で買えるよ!」
「書人はお金を持ち合わせていないのです」
紫乃が申し訳なさそうに扇を傾けた。
「平安の世であれば品物でお返しができるのですが」
「……全部私持ちってこと?」
「五つ! 詠の分も入れて五つ!」
アリアが指を折って数えている。
廊下の自販機でボタンを五回押した。がこん、がこん、がこん、と紅茶のペットボトルが落ちてくる。百三十円かける五本で六百五十円。司書の初期投資としては安い方なのだろうか。たぶん世界一安い就任費用だ。
図書室に戻ると、アリアが机を寄せて即席のお茶会場を作っていた。紫乃が本を花瓶のように立てて飾りつけている。零が呆れている。
「それ花瓶じゃねえだろ」
「花瓶がなければ本を使えばいいのです」
「マリー・アントワネットか」
「誰ですかそれ」
「お前より七百年くらい後の人」
ジョバンニに紅茶を渡した。両手で包むように持って「……温かい」と呟いた。ちょっとぬるめのペットボトルだがジョバンニにとっては温かいらしい。その両手が少し震えているのに詠は気づいたけれど、聞けなかった。
アリアが蓋を開けて一口飲んで叫んだ。
「おいしい! お茶会最高! 毎日やりたい!」
「うるさい。毎日やったら詠の財布が死ぬ」
「いいよ別に、毎日でも」
零が一瞬こちらを見た。何か言いかけてやめて、紅茶を飲んだ。
紫乃が「まあ、香りは控えめですが、趣がありますね」と上品に口をつけている。ジョバンニは両手で紅茶を包んだまま窓の外を見ていた。飲んでいるのか、ただ温もりを感じているのか。横顔がきれいだな、と思って、慌てて別のところを見た。
窓から夕焼けの最後の光が差し込んでいた。五人分の影が床に長く伸びている。書人にも影があるんだ、と思った。影があるなら、ここにちゃんと存在しているということだ。
不思議だった。この人たちといると力が抜ける。教室では言葉を選んで選んで、それでも間違える。ここでは間違えてもいい気がする。百三十円の紅茶が、なぜかいつもよりおいしい。
紫乃が紅茶を一口含んでから、扇を口元に当ててふと聞いた。
「詠さん。ひとつ伺ってもよろしいですか。『既読スルー』とは何ですか」
「……え?」
「クラスの皆様との文。めっせんじゃーとやらで、そのような行為をなさっていると伺いました」
「なんで知ってるんですか」
「本は色々なことを聞いているのですよ」
本棚に耳あり。ちょっと怖い。でも嫌じゃない。
「えっと……メッセージを読んだのに返事しないことです」
紫乃が小首を傾げた。
「それは……『文を読みて返さぬ』ということですか。平安の世では大変な無礼にあたります。歌を贈られて返歌をしないのは、相手の存在そのものを否定するに等しい行い。相手の方はお怒りではありませんか」
アリアが「えー、じゃあ詠は犯罪者?既読スルー罪?」と目を丸くした。「罪じゃないよ」と詠が言うと「平安では罪ですね」と紫乃がさらりと追い打ちをかけた。千年前の常識で裁かないでほしい。
莉子の顔が浮かんだ。「頼ってくれてもいいのに」。あの小さな声。怒りじゃなかった。たぶん、もっと柔らかくて、だから余計に痛いもの。
「……怒ってるかも」
「怒っていなくても、悲しんでいるかもしれませんね」
千年生きた人の言葉は柔らかいのに重い。こちらの防御を素通りして胸の一番柔らかいところに届く。
詠は紅茶をもう一口飲んで、何も言えなかった。




