第2話「夜の司書の条件は、秘密を守れること」 Part 1
夢だった。
絶対に夢だった。
柊木詠は布団の中で天井の染みを数えながら、自分に言い聞かせた。本棚が光るわけがない。本から人間が出てくるわけがない。金髪の女の子が「お茶会しない?」って聞いてくるわけがない。ましてや暗闇の中で星みたいに目が光る男の子が「……君、人間?」なんて聞いてくるわけがない。
ない。絶対に、ない。
「……詠」
あの声を思い出して、心臓が跳ねた。名前の前の一拍の沈黙。たった二文字の名前を、あんなふうに大事そうに発音する人間を詠は知らない。人間じゃないけど。だから夢なのだ。
寝起きの動悸は医学的によくあることだ。夢の残像で心拍数が上がるのも正常な生理現象だ。そう、生理現象。断じてジョバンニという名前の男の子の声が耳から離れないとかそういうことでは。
スマホのアラームが鳴った。六時半。詠はのろのろ起き上がって眼鏡をかけた。世界の輪郭がくっきりする。ぼやけた夢の国から、くっきりした現実に帰ってきた感触。眼鏡をかけるたびに思う。現実はいつもピントが合いすぎている。
リビングに降りると母が冷蔵庫の前に立っていた。
「おはよう。ご飯あるから」
「何が?」
「何かが」
冷蔵庫を覗いた。昨日の残りの肉じゃがと、賞味期限が今日のヨーグルトと、なぜかチューブわさびが整列していた。わさびの存在感がすごい。肉じゃがにわさびをつける文化は我が家にはないはずだが、我が家の冷蔵庫には不思議な生態系がある。深く考えるのをやめて肉じゃがをレンジに入れた。
「あんた、昨日帰り遅かったね」
「うん。図書室に忘れ物して取りに戻ったら、ちょっと」
「ふうん」
母はそれ以上聞かなかった。この距離感がありがたい日と寂しい日がある。今日はありがたい方だった。「本棚から人が出てきました」なんて説明したら、母はたぶん「ふうん」と言うだろう。それはそれで怖い。
肉じゃがを食べて歯を磨いて、鞄を持って玄関に向かう。靴を履きながら鞄の中を確認した。
教科書、筆箱、財布。そしてあの古い文庫本。表紙に父の字で「詠へ」と書かれた『銀河鉄道の夜』。角がすり減って、背表紙の文字はかすれている。どこに転校しても手放さなかった一冊。お守りみたいなものだ。お守りの効果があるかは知らないけれど、鞄の中にこれがあると少しだけ息がしやすくなる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。帰りにヨーグルト買ってきて。あと牛乳」
なぜかいっぱいあるわさびの謎を残したまま家を出た。空が高かった。
学校まで徒歩五分。この道もまだ三日目で、体が覚えていない。前の学校では通学路を目を瞑っても歩けた。その前の学校でも。覚えた頃に手放すのが転校というものだ。道も、人も。
教室に入ると隣の席の木野瀬莉子が「おはよう」と言ってくれた。転校初日から毎朝声をかけてくれる。
「……おはよう」
莉子は少し待ってから「今日の体育、バレーだって」と教えてくれた。「そうなんだ」と返す。会話が二往復で途切れた。莉子は何か言いたそうな顔をしていたけれど、詠は鞄から教科書を出すふりをして視線を外した。外しながら、莉子の表情が一瞬だけ曇ったことに気づかないふりもした。
二時間目。体育。バレーボール。
詠はサーブが打てない。ボールを上に投げて右手を振る。この二つの動作を同時にやるとなぜか手がボールの五センチ下を通過する。物理法則に反している気がするが、反しているのはたぶん詠の運動神経の方だ。
「こうやるんだよ」
莉子が隣に来た。お手本を見せてくれる。トスを上げて、手のひらの付け根あたりでぱんと打つ。軽やかな音がして、ボールがネットを越えていった。簡単そうに見える。見えるだけだ。詠にとって球技は外国語に近い。文法はわかるのに会話ができない、あの感じ。
「手のひらを少し丸めるといいよ。あとボールをよく見て」
「……大丈夫」
もう一度構えた。トス。振りかぶる。手が空を切った。ボールは詠の足元にぽとりと落ちた。体育館に笑い声が散る。「ドンマイ」と前の列から声がかかる。悪意のない声。悪意がないのがかえって恥ずかしい。
「……頼ってくれてもいいのに」
莉子が小さな声で言った。
聞こえないふりをした。聞こえていた。でも「頼る」のやり方がわからないのだ。頼って、仲良くなって、また転校して全部手放す。それなら最初から頼らない方がいい。何度も繰り返してきた計算だ。計算は合っているはずだった。合っているはずなのに莉子の声がちくりと胸に刺さって、その痛みの正体がわからなかった。
昼休み。購買のメロンパンは今日も売り切れだった。ショーケースの「メロンパン」の札の前には美しい虚空が広がっている。この学校のメロンパンはいったいどれだけの人間に愛されているのか。国宝指定でも受けているのかもしれない。仕方なくカレーパンを買って図書室へ向かった。
いつもの窓際の席。日が当たりすぎない場所。本を開く。活字の海に沈む。ここだけがどこの学校でも同じだ。本は裏切らない。
ページを繰る指先に何かが触れた。紙が挟まっている。小さく折りたたまれたメモ。丸くて太い字。クレヨンみたいに太い。
『放課後の整理時間にまた来てください。お願いがあります。 アリア』
「お願い」の三文字だけ筆圧が三倍で紙が凹んでいた。裏返すと「お茶会するよ!」と書いてある。びっくりマークの点の部分がハートだった。
口元を押さえた。笑いそうになったからだ。夢じゃなかった。やっぱり夢じゃなかった。昼間は本のはずなのにいつの間にこんなものを挟んだのか。でもアリアならやりかねない。不思議の国の住人に常識は道を譲るしかない。
メモをポケットにしまった。放課後の段取りを考える。まず図書委員に申し込む。閉館後の整理ボランティアの許可書をもらう。母にサインしてもらう。段取りは完璧だ。
行くかどうかじゃなかった。行くに決まっていた。自分でもびっくりするくらい迷わなかった。
放課後、烏丸先生に図書委員の希望を伝えると
「あら、嬉しい。人手が足りなかったの」
と文庫本をカーディガンのポケットにしまいながら微笑まれた。あのポケットは本専用なのだろうか。形が完全に文庫本の形になっている。
閉館後の整理ボランティアについても説明してもらった。
「保護者の許可書が必要なの。あと基本は八時までね」
許可書を受け取る。じゃあ明日から、と言おうとして、もう一度先生の顔を見た。穏やかな目だった。
「柊木さん、図書室が好きなのね」
不意打ちで胸が熱くなった。
「……好きです」
自分の声が思ったより小さかった。
帰宅して母に許可書を差し出す。
「八時までに帰ってくるなら」
あっさりサインしてくれた。
「ご飯は?」
「冷蔵庫にある」
「何が?」
「何かが」
朝と同じ会話だ。もはや我が家の伝統芸能である。冷蔵庫を開けた。わさびがまだいた。存在感が増している気すらする。
翌日が待ち遠しかった。そんなこと、どの転校先でも思ったことがなかった。布団に入って天井を見た。染みが笑っているように見えた。




