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第12話「居場所がある、ということ」 Part 3

 帰り道。

 冬の空気が頬を刺す。吐く息が白く、街灯の光の中で一瞬だけきらめいて消える。

 詠はポケットに手を入れながら歩いた。鞄の中には空になったポットとティーカップ。ジョバンニの手紙は、制服の胸ポケットに入れた。心臓の真上。歩くたびに紙の感触が胸に触れて、その度に少しだけ温かくなる。


 商店街を抜ける。パン屋の明かりがまだ点いていて、焼きたてのパンの匂いが冬の空気に溶けていた。購買のメロンパンは、最近やっと買えるようになった。日向が「朝イチで二個確保する作戦」を編み出したからだ。一個は自分の分、一個は詠の分。


「お前の悲しそうな顔見なくて済むから一石二鳥だ」


と言っていた。


(それ、二鳥とも私のためじゃん。)


 スマホが震えた。莉子からのメッセージだった。


「紅茶どうだった?」


 詠は立ち止まって返信を打った。


「すっごく美味しかった!クッキーも!天才!」

「やったー!!!!」


 スタンプが三つ連続で飛んできた。どれも大げさに喜ぶ動物のスタンプ。莉子らしい。


「みんな喜んでた!」

「みんなって?」


 しまった。「みんな」って書いちゃった。書人のことは言えない。


「先生とかボランティアの人たち」

「そっかー! よかった! また焼くね!」

「……ありがとう、莉子」

「どしたの急に改まって」

「ううん。なんでもない。ただ、ありがとうって思っただけ」


 莉子からの返信は、小さな花のスタンプだった。何も言わなくても伝わる、という距離感。半年前には想像もできなかった関係だ。


 続けて日向からメッセージが来た。


「お前のアカどれ? フォローする」


 詠は少し笑った。あのSNSの読書アカウント。フォロワー二十三人の、誰にも教えていなかったアカウント。いや、もう「誰にも教えていない」は嘘だ。莉子にはバレた。バレたというか、莉子はずっと前から知っていた。いいねを毎回つけてくれていたのは莉子だった。「柊木さんの書評、天才だよ」と、あの日の文化祭で言ってくれた。


「本読まないくせに」と返した。

「読むようになったんだよ。お前のせいで」


 お前のせいで。

 人のせいにするな、と言おうとして、やめた。代わりに正直な言葉が指先から出てきた。


「……それ、嬉しい」

「素直か」


 詠は少し笑って、アカウント名を送った。数秒後にフォロー通知が来た。フォロワー二十四人。そのうちの二人が、詠の顔を知っている人間になった。

 いつか、もっと増えるのかな。

 増えなくてもいい。でも、増えたら嬉しい。


 家の玄関を開けると、リビングの明かりがついていた。珍しく母がソファに座っていた。テレビもつけずに、文庫本を読んでいる。


「ただいま」

「おかえり。遅かったね」

「整理ボランティア。あと、お茶会した」

「お茶会?」

「うん。友達がくれた紅茶で」


 母が本から顔を上げた。「友達」という言葉を聞いて少し驚いた顔をして、それからゆっくり笑った。


「……あんた、変わったね」

「そう?」

「前は『友達』って言葉、使わなかったでしょ」


 言われてみれば、そうだった。「クラスの子」とか「隣の席の人」とか、そう呼んでいた。どうせ転校するから。名前を覚えたら離れるときに痛い。だから距離を保っていた。それが、いつの間にか。


「あ、そうだ。お父さんから連絡があったんだけど」


 母がスマホを持ち上げた。画面には父からのメッセージが表示されていた。


「また転勤の可能性があるんだって」






 転勤。転校。また。






 全部。全部、置いていくの?






 詠はしばらく黙った。窓の外の暗い空を見た。







 それから、自分でも驚くくらい穏やかな声で続けた。


「でも次の学校にも、図書室があるといいな」


 母が少し目を見開いて、それから、ふっと笑った。


「お父さんと同じこと言うね、あんた」

「……お父さんも言ったの?」

「転勤のたびにね。『次の町にもいい本屋があるといいな』って。あの人も本しか信用しないタイプだから」


 母が文庫本に視線を戻した。


 詠は自分の部屋に向かいながら、胸ポケットの手紙にそっと触れた。紙の感触が指先に伝わる。ジョバンニの字は少し丸くて、詠の字と似ていた。


 「どこに行っても、星はある」


 あの声が聞こえる気がした。

 部屋の窓を開けた。十二月の空は澄んでいた。

 星が見えた。こと座のベガ。四月の夜にジョバンニが教えてくれた星。あのときは曇っていて見えなかった。「……あるよ。ずっと」とジョバンニは言った。見えなくても、あると。


 見えなくても。触れなくても。離れても。星はそこにある。

 零の「帰ってこい」という声を思い出す。あの声の中にあった、名前のつかない感情。零への気持ちにも、ジョバンニへの気持ちにも、まだ名前はつかない。でも名前がつかないまま大切にしていい。まだ時間がある。


 スマホを開いた。SNSの読書アカウント。フォロワー二十四人。

 今日の出来事は書けない。夜の図書室の秘密は、ずっと秘密のままだ。

 だから代わりに、こう書いた。


『本は、手放したときに本当の旅を始める。今日、そう思った』


 投稿ボタンを押した。

 数秒後、いいねがひとつ。莉子だった。すぐにもうひとつ。日向だった。

 そしてさらにもうひとつ。知らないアイコン。フォロワー二十四人の中の誰か。顔も名前も知らない、でも確かに今、詠の言葉を読んでくれている誰か。

 届いてる。

 詠は小さく笑って、スマホを閉じた。


 明日も図書室に行こう。


 昼は本を並べて、ポップを書いて、やってくる人を待つ。放課後は掲示板を整理して、特集コーナーの本を入れ替える。莉子が来たら一緒にブックカバーカードを作ろう。日向が来たら、次に読む本を薦めよう。そして夜になったら。


 零はきっとポップを書いている。最近、詠が何気なく言った言葉を引用することが増えたらしい。本人には絶対に言わないけれど、紫乃さんは全部知っている。千年分の観察眼は、何も見逃さない。

 アリアは新しい本の背表紙を覗き込んで「なんで?」と問いかけているだろう。答えが怖いと言ったアリアは、それでも問い続けることを選んだ。靴下は何色と何色だろう。明日はきっとまた違う組み合わせだ。

 そしてジョバンニは窓の外の星を見ながら、詠が来るのを待っている。温かい紅茶のカップを抱えて。

 明日もお茶会する。本物の紅茶で。


 図書室の灯りは、ずっと消えない。

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