表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/36

最終話「居場所がある、ということ」 Part 2

 整理ボランティアの時間。

 書人たちが全員、図書室にそろっていた。

 詠が照明を落として薄暗くなった図書室に入ると、いつもの光景が待っている。零が壁にもたれて本を読んでいる。アリアが棚の間を跳ねるように歩いている。紫乃が扇を手に、静かにカウンターの椅子に座っている。そしてジョバンニが、窓際で星を見ている。


 でも今日は、ひとつだけ違うことがあった。

 ジョバンニの体が以前より、確かに「ある」ように見えた。

 あの十一月の夜、ジョバンニの体はほとんど透明だった。手を伸ばしても通り抜けた。声さえ途切れて消えることがあった。それが今、輪郭がはっきりしている。まだ薄い。でも、いる。ここに、確かにいる。


「ジョバンニ」


 呼びかけると、ジョバンニが振り返った。暗がりの中で、星みたいに光る目。


「……誰か、借りてくれたんだよ。今日」と詠は言った。「あの本。お父さんがくれた本」

「……知ってる」ジョバンニが静かに答えた。「感じたよ。……誰かの手の温度が、伝わってきた」

 零が本から顔を上げた。「あの三年の女子、帯を読んで借りたんだ。お前の力じゃなくて、本の力だよ」

「うん」


 詠は素直に笑った。


「それが一番嬉しい」


 零が一瞬だけ何か言いたそうに口を開いて、すぐに閉じた。代わりに本に視線を戻す。でも、ページをめくる手が止まっていることに詠は気づいていた。


「あと、桧山さんが図書室で本を借りてくれた」

「桧山? あの数字の人?」とアリアが首をかしげた。

「そう。手帳の中にずっと隠してた児童文学の続編を借りてくれた」


 紫乃が扇の向こうで微笑んだ。


「それはとても嬉しいことですね。鎧を脱ぐことは、刀を抜くことよりずっと勇気がいりますから」

「……さすが千年分のデータベース」

「恋のデータベースだけではないのですよ」


 紫乃がおかしそうに目を細めた。アリアが「紫乃、たまにカッコいい」と言って紫乃の膝に頭を乗せた。紫乃がそっとアリアの金髪を撫でる。その光景はいつ見ても胸が温かくなる。


「で」


 詠は鞄に手を入れた。


「実はね」


 缶入りの紅茶を取り出した。次にタオルで包んだティーカップを五つ。それから、小さなクッキーの箱。

 アリアの目が、信じられないくらい大きくなった。


「えええーっ! どうしたのそれ!」

「紅茶好きって話したら莉子がプレゼントしてくれたの。せっかくだからみんなで飲みたいなって思って。さっき家に帰って淹れてきた。ポットに入れてあるから、まだ温かいと思う」


 鞄の底からステンレスのポットを出す。蓋を開けると、紅茶の香りがふわりと広がった。ベルガモットの華やかで爽やかな甘い香り。


「本格的! 本格的じゃない!?」


 アリアが図書室を走り回った。靴下の左が星柄で右がストライプ。


「お茶会! 本物のお茶会! 自販機の紅茶じゃなくて!」

「走るな」


 零がため息まじりに立ち上がった。


「本棚にぶつかるだろ」

「だって嬉しいんだもん!」

「嬉しくても走るな」

「有罪! 走っちゃいけないなんて有罪!」

「何の罪だよ」

「退屈罪の逆! 楽しすぎ罪!」

「そんな罪ねえよ」


 零がアリアの襟首をひょいと掴んで引き戻す。アリアがじたばたする。紫乃が「まあまあ」と扇で口元を隠しながら笑っている。ジョバンニは窓際で、その騒ぎを眺めながら静かに笑っていた。


 ああ、これだ。この景色が好きだ。


 詠はティーカップにゆっくりと紅茶を注いだ。湯気が立ちのぼる。冬の図書室の冷えた空気の中で、紅茶の温度がやけに鮮やかだった。

 一つ目をアリアに。二つ目を紫乃に。三つ目を零に渡す。零は「べつに」と言いながら受け取って、一口飲んで「……うまいな」と小さく呟いた。耳が赤い。「別に」って言ったくせに。

 四つ目をジョバンニに差し出した。

 ジョバンニの手がカップに触れた。

 通り抜けなかった。

 薄い。握力は弱い。でも確かに、ジョバンニの指がティーカップの取っ手にかかっていた。


「……持てた」と詠が呟いた。

「……うん」


 ジョバンニがカップを両手で包んだ。あの四月の夜、自販機の紅茶を両手で包んで「温かい」と言ったときと、同じ仕草。


「……温かい」


 同じ言葉。でも今は、あのときよりも少しだけ声に色があった。

 詠の目が熱くなった。眼鏡を直す暇もなかった。

 五人でカップを手に、窓際に集まった。クッキーの箱を開けると、アリアが真っ先に手を伸ばす。


「これ美味しい! 莉子さん天才!」

「自分で焼いたんだって。推し活で鍛えたらしい」

「推し活すごい……」

「推し活は、すべてを鍛えるのですね」


 紫乃が感心したように頷いた。


「紫乃さん、推し活の意味わかってます?」

「好きなものへの情熱を注ぐ営みでしょう? 和歌を詠むことも推し活のようなものです」

「……スケールが違う」


 零がクッキーをかじりながら言った。


「お前、最初の日のこと覚えてるか」

「最初の日?」

「四月。上着忘れて戻ってきた夜」

「……忘れるわけないじゃん」

「あのとき逃げなかったな」

「面白かったから」

「面白かった、か」


 零が少し笑った。皮肉じゃない笑い方だった。


「……まあ、来てくれてよかったよ」

「え、今なんて?」

「聞こえただろ」

「もう一回言って」

「言わない」

「ケチ」

「うるさい」


 零の耳が赤くなっていた。詠は笑いをこらえた。こらえきれなかった。

 窓の外に目をやると、星が出ていた。冬の空は澄んでいて、夏よりもずっと星がよく見える。


「……あれ、こと座のベガだよね」

「……うん。織姫星」


 ジョバンニが隣から答えた。四月に教えてくれたときと、同じ声。


「天の川の向こうにアルタイルがある。今日は見えるよ」

「……見える」


 四月は曇っていて見えなかった。でも今日は見えた。ずっとそこにあったものが、ようやく見えた。

 零がカップを置いて、窓枠に背中を預けた。


「……明日もあさっても、ここに来い」


 唐突に零が言った。詠は驚いて顔を上げた。


「……どこに?」

「図書室に決まってんだろ。ここに来て、帰って、また来い。それだけだ」

「……うん」

「帰ってこい。毎回、ここに」


 零の声が少しだけ低くなった。目は合わせていない。窓の外の星を見ていた。詠は「……うん」ともう一度言った。

 零が「帰ってこい」と言った。それがすごく嬉しかった。この気持ちに名前をつけるのは、もう少し先でいい。


 紅茶を飲み終えたころ、詠は鞄の底に小さな紙が入っていることに気づいた。

 いつ入れたのだろう。昨夜、書人たちに「明日もね」と言われて図書室を出るとき、ジョバンニが何も言わずに鞄のそばにいた。あのときだ。

 紙を広げた。


  詠へ

  どこに行っても、星はある。

  君が本を好きでいてくれたら、

  僕はどこにだっているから。

      ── ジョバンニ


 文字が滲んだ。いや、滲んだのは詠の視界のほうだった。

 声に出さずに、ゆっくりとその言葉を読んだ。二度、三度。胸の奥が、静かに震えた。

 零が隣から覗き込もうとした。


「……何が書いてあったの」

「秘密」


 詠はその紙を胸に押し当てた。


「……ふうん」


と零が言った。いつもより明らかに不機嫌だった。唇の端がいつもと逆の方向に曲がっている。

 アリアが飛びついてきた。


「えーっ気になるー! 読んで読んで!」

「人の手紙を読むものではありませんよ」

 紫乃が穏やかにたしなめた。

「有罪! 秘密は有罪!」

「何の罪だよ」


 零がいつもの調子でツッコんだ。

 ジョバンニは窓際で、何も言わずに微笑んでいた。全部わかっている顔だった。

 詠は笑った。声を出して、笑った。

 ここが居場所だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ