最終話「居場所がある、ということ」 Part 2
整理ボランティアの時間。
書人たちが全員、図書室にそろっていた。
詠が照明を落として薄暗くなった図書室に入ると、いつもの光景が待っている。零が壁にもたれて本を読んでいる。アリアが棚の間を跳ねるように歩いている。紫乃が扇を手に、静かにカウンターの椅子に座っている。そしてジョバンニが、窓際で星を見ている。
でも今日は、ひとつだけ違うことがあった。
ジョバンニの体が以前より、確かに「ある」ように見えた。
あの十一月の夜、ジョバンニの体はほとんど透明だった。手を伸ばしても通り抜けた。声さえ途切れて消えることがあった。それが今、輪郭がはっきりしている。まだ薄い。でも、いる。ここに、確かにいる。
「ジョバンニ」
呼びかけると、ジョバンニが振り返った。暗がりの中で、星みたいに光る目。
「……誰か、借りてくれたんだよ。今日」と詠は言った。「あの本。お父さんがくれた本」
「……知ってる」ジョバンニが静かに答えた。「感じたよ。……誰かの手の温度が、伝わってきた」
零が本から顔を上げた。「あの三年の女子、帯を読んで借りたんだ。お前の力じゃなくて、本の力だよ」
「うん」
詠は素直に笑った。
「それが一番嬉しい」
零が一瞬だけ何か言いたそうに口を開いて、すぐに閉じた。代わりに本に視線を戻す。でも、ページをめくる手が止まっていることに詠は気づいていた。
「あと、桧山さんが図書室で本を借りてくれた」
「桧山? あの数字の人?」とアリアが首をかしげた。
「そう。手帳の中にずっと隠してた児童文学の続編を借りてくれた」
紫乃が扇の向こうで微笑んだ。
「それはとても嬉しいことですね。鎧を脱ぐことは、刀を抜くことよりずっと勇気がいりますから」
「……さすが千年分のデータベース」
「恋のデータベースだけではないのですよ」
紫乃がおかしそうに目を細めた。アリアが「紫乃、たまにカッコいい」と言って紫乃の膝に頭を乗せた。紫乃がそっとアリアの金髪を撫でる。その光景はいつ見ても胸が温かくなる。
「で」
詠は鞄に手を入れた。
「実はね」
缶入りの紅茶を取り出した。次にタオルで包んだティーカップを五つ。それから、小さなクッキーの箱。
アリアの目が、信じられないくらい大きくなった。
「えええーっ! どうしたのそれ!」
「紅茶好きって話したら莉子がプレゼントしてくれたの。せっかくだからみんなで飲みたいなって思って。さっき家に帰って淹れてきた。ポットに入れてあるから、まだ温かいと思う」
鞄の底からステンレスのポットを出す。蓋を開けると、紅茶の香りがふわりと広がった。ベルガモットの華やかで爽やかな甘い香り。
「本格的! 本格的じゃない!?」
アリアが図書室を走り回った。靴下の左が星柄で右がストライプ。
「お茶会! 本物のお茶会! 自販機の紅茶じゃなくて!」
「走るな」
零がため息まじりに立ち上がった。
「本棚にぶつかるだろ」
「だって嬉しいんだもん!」
「嬉しくても走るな」
「有罪! 走っちゃいけないなんて有罪!」
「何の罪だよ」
「退屈罪の逆! 楽しすぎ罪!」
「そんな罪ねえよ」
零がアリアの襟首をひょいと掴んで引き戻す。アリアがじたばたする。紫乃が「まあまあ」と扇で口元を隠しながら笑っている。ジョバンニは窓際で、その騒ぎを眺めながら静かに笑っていた。
ああ、これだ。この景色が好きだ。
詠はティーカップにゆっくりと紅茶を注いだ。湯気が立ちのぼる。冬の図書室の冷えた空気の中で、紅茶の温度がやけに鮮やかだった。
一つ目をアリアに。二つ目を紫乃に。三つ目を零に渡す。零は「べつに」と言いながら受け取って、一口飲んで「……うまいな」と小さく呟いた。耳が赤い。「別に」って言ったくせに。
四つ目をジョバンニに差し出した。
ジョバンニの手がカップに触れた。
通り抜けなかった。
薄い。握力は弱い。でも確かに、ジョバンニの指がティーカップの取っ手にかかっていた。
「……持てた」と詠が呟いた。
「……うん」
ジョバンニがカップを両手で包んだ。あの四月の夜、自販機の紅茶を両手で包んで「温かい」と言ったときと、同じ仕草。
「……温かい」
同じ言葉。でも今は、あのときよりも少しだけ声に色があった。
詠の目が熱くなった。眼鏡を直す暇もなかった。
五人でカップを手に、窓際に集まった。クッキーの箱を開けると、アリアが真っ先に手を伸ばす。
「これ美味しい! 莉子さん天才!」
「自分で焼いたんだって。推し活で鍛えたらしい」
「推し活すごい……」
「推し活は、すべてを鍛えるのですね」
紫乃が感心したように頷いた。
「紫乃さん、推し活の意味わかってます?」
「好きなものへの情熱を注ぐ営みでしょう? 和歌を詠むことも推し活のようなものです」
「……スケールが違う」
零がクッキーをかじりながら言った。
「お前、最初の日のこと覚えてるか」
「最初の日?」
「四月。上着忘れて戻ってきた夜」
「……忘れるわけないじゃん」
「あのとき逃げなかったな」
「面白かったから」
「面白かった、か」
零が少し笑った。皮肉じゃない笑い方だった。
「……まあ、来てくれてよかったよ」
「え、今なんて?」
「聞こえただろ」
「もう一回言って」
「言わない」
「ケチ」
「うるさい」
零の耳が赤くなっていた。詠は笑いをこらえた。こらえきれなかった。
窓の外に目をやると、星が出ていた。冬の空は澄んでいて、夏よりもずっと星がよく見える。
「……あれ、こと座のベガだよね」
「……うん。織姫星」
ジョバンニが隣から答えた。四月に教えてくれたときと、同じ声。
「天の川の向こうにアルタイルがある。今日は見えるよ」
「……見える」
四月は曇っていて見えなかった。でも今日は見えた。ずっとそこにあったものが、ようやく見えた。
零がカップを置いて、窓枠に背中を預けた。
「……明日もあさっても、ここに来い」
唐突に零が言った。詠は驚いて顔を上げた。
「……どこに?」
「図書室に決まってんだろ。ここに来て、帰って、また来い。それだけだ」
「……うん」
「帰ってこい。毎回、ここに」
零の声が少しだけ低くなった。目は合わせていない。窓の外の星を見ていた。詠は「……うん」ともう一度言った。
零が「帰ってこい」と言った。それがすごく嬉しかった。この気持ちに名前をつけるのは、もう少し先でいい。
紅茶を飲み終えたころ、詠は鞄の底に小さな紙が入っていることに気づいた。
いつ入れたのだろう。昨夜、書人たちに「明日もね」と言われて図書室を出るとき、ジョバンニが何も言わずに鞄のそばにいた。あのときだ。
紙を広げた。
詠へ
どこに行っても、星はある。
君が本を好きでいてくれたら、
僕はどこにだっているから。
── ジョバンニ
文字が滲んだ。いや、滲んだのは詠の視界のほうだった。
声に出さずに、ゆっくりとその言葉を読んだ。二度、三度。胸の奥が、静かに震えた。
零が隣から覗き込もうとした。
「……何が書いてあったの」
「秘密」
詠はその紙を胸に押し当てた。
「……ふうん」
と零が言った。いつもより明らかに不機嫌だった。唇の端がいつもと逆の方向に曲がっている。
アリアが飛びついてきた。
「えーっ気になるー! 読んで読んで!」
「人の手紙を読むものではありませんよ」
紫乃が穏やかにたしなめた。
「有罪! 秘密は有罪!」
「何の罪だよ」
零がいつもの調子でツッコんだ。
ジョバンニは窓際で、何も言わずに微笑んでいた。全部わかっている顔だった。
詠は笑った。声を出して、笑った。
ここが居場所だった。




