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最終話「居場所がある、ということ」 Part 1

 十二月の朝は、息が白い。

 柊木詠は校門をくぐりながら、鞄の中にそっと手を入れた。指先が触れるのは教科書でもノートでもない。莉子がくれた缶入りの紅茶と、タオルで包んだティーカップと、焼き菓子の小箱。


(今日は、お茶会をする。本物の。)


 その思いつきが昨夜から胸の中で温かく回り続けている。アリアの顔を想像すると自然に口元がほころんだ。「えええ、どうしたのこれ!?」って叫ぶだろうな。零は「うるさい」って言うだろうな。紫乃は扇の向こうで静かに微笑んで、ジョバンニは窓際でカップを両手で包んで「……温かい」と呟くのだろう。

 全部わかる。9か月かけてわかるようになった。


 図書室の扉を開けた瞬間、詠の足が止まった。

 カウンターの横、新着図書コーナーの一角に見覚えのある背表紙があった。

 少し日に焼けた文庫本。角がほんのわずかに丸くなっている。何百回も開いた手触りを、指が覚えている。

 表紙に、父の字。「詠へ」。

 烏丸先生が手書きの帯を巻いてくれていた。丸みのある優しい字だった。


『この本は、生徒から寄贈された一冊です』


 喉の奥が、きゅっと締まった。

 わかっていた。自分で決めたことだ。あの十一月の夜、ジョバンニの半透明の手が通り抜けたとき、この本を手放す覚悟を決めた。詠だけの本じゃなくて、みんなの本にする。そうすれば、誰かが手に取ってくれるかもしれない。ジョバンニが消えずに済むかもしれない。

 でも、いざ棚に並んでいるのを見ると、胸の真ん中がじんと熱くなった。

 お父さん。あなたがくれた本、ちゃんと届けるからね。

 眼鏡を直した。泣きそうなやつだった。自分でわかる。最近はわかるようになった。泣きそうなとき、照れたとき、悔しいとき、全部同じ仕草をする自分のことが。


 昼休み。

 図書室には、以前よりもずっと多くの生徒がいた。三行レビュー掲示板の前で立ち止まっている子。月替わり特集コーナーで背表紙を一冊一冊たどっている一年生。文化祭のときに展示を見て、それからずっと通ってくれている顔もある。

 日向が連れてきたサッカー部の後輩が、カウンターにやってきた。


「三行レビュー書きたいんすけど」

「カードはそこにあるよ。ペンも自由に使って」

「何書けばいいんすか」

「好きな本について、三行で。それだけ」

「三行って短くないすか」

「短いからいいんだよ。三行に絞ると、本当に伝えたいことだけが残るから」


 後輩が「へえ」と素直に感心した顔で、カードを持って窓際の席に座った。

 ちょっと偉そうだったかな。でも本当のことだし。

 9か月前の自分が見たら驚くだろう。あのころの詠は、誰かに本を薦めることすらできなかった。「好きな本は?」と聞かれて「……特にありません」と答えた。本当は三十分くらい語れたのに。


 烏丸先生がカウンターの横を通りかかった。いつもの大きめのカーディガンに、ポケットから文庫本が覗いている。


「最近、図書室の空気が変わったの、わかる? 前はね、放課後になると誰もいなくて、私一人で本棚を眺めてたの」

「……先生、それはちょっと寂しいです」

「あはは、そうだね。でも本棚って、じっと見てると話しかけてくれる気がするのよ」


 先生、それ、あながち間違いじゃないんですよ。


 もちろん口には出せない。夜の図書室の秘密は、絶対に守らなければならない。でも先生の言葉を聞いて、少しだけ嬉しくなった。この図書室を大切に思っているのは詠だけじゃない。


 そのとき、棚の前で足を止めた人影があった。

 三年生の女子生徒だった。ポニーテールに、少し大きめのカーディガン。手書きの帯をじっと読んでいる。指先が表紙を撫でるように触れた。

 詠の心臓が跳ねた。

 女子生徒が本を棚から抜いた。表紙をしばらく見つめて、ページをぱらぱらとめくって、それからカウンターに持ってきた。


「これ、借りていいですか」


 声が出なかった。喉が詰まって、一瞬だけ頭の中が真っ白になった。


「……はい。どうぞ」


 声が震えた。貸出カードにスタンプを押す手も震えた。女子生徒は少し不思議そうに詠を見たけれど「ありがとう」と笑って去っていった。


 借りてくれた。


 お父さんがくれた、詠の本。詠の手を離れて、知らない誰かの手に渡った。

 それは喪失のはずだった。手放すと決めた夜、布団の中でずっと表紙の文字をなぞっていた。「詠へ」。この文字をもう毎日は見られなくなる。

 なのに胸の中に広がったのは、温かさだけだった。

 本ってこういうことだ。一人の手から別の一人の手へ渡って、読まれるたびに物語は息を吹き返す。お父さんから詠に届いたこの本が、今度は見知らぬ三年生の女の子に届く。その子がいつか誰かに「この本いいよ」って言うかもしれない。そうやって、物語は終わらない。

 眼鏡を直した。今度も泣きそうなやつだ。でも構わない。嬉しいほうの泣きそうだから。


 放課後。

 迷いのない革靴の足音が近づいてきた。

 桧山楓が図書室に入ってきた。

 詠は思わず立ち上がった。桧山さんが生徒会の用事以外で図書室に来るのは、初めてのことだった。

 桧山がカウンターの前に立つ。いつものようにきっちりとした制服。手帳を胸の前に抱えている。


「柊木さん。文化祭のあと、利用者数が落ちてないですね」

「はい」

「正直、一過性で終わると思ってました」

「……私もちょっとだけ思ってました」


 桧山が表情を崩した。数字と効率で武装した桧山楓の鎧の隙間から、ふっと別の顔が覗いた。初めて見る笑い方だった。


「私も、一冊借りていいですか」


 桧山が手帳のカバーをゆっくり開いた。内ポケットから覗いたのは、小さな文庫本。角が丸くなって、背表紙の色が少し褪せている。何度も何度も読み返した本だけが持つ、あの柔らかさ。


「この本、ずっと手帳に入れてたんです。子どものころ好きだった児童文学で」


 桧山の声が、ほんの少しだけ小さくなった。

 日本の小人、コロボックルが登場する児童文学だった。

 ちょっと意外で。ちょっと、わかる気がした。

 合理性で武装し始めた人が、それでも手放せなかった一冊。感情に流されると負けると学んでしまった人が、手帳の内ポケットにだけ許していた柔らかさ。

「わかります」と詠は言った。

 桧山が少し目を見開いた。それから「そうですか」と静かに言って、何かを飲み込むように一度だけ瞬きをした。


「今日はこの本の続編を借りようと思って」

「はい」


 今度は手が震えなかった。カードにスタンプを押す音が、静かな図書室に小さく響いた。桧山が本を受け取って「ありがとうございます」と頭を下げる。手帳ではなく、文庫本を胸に抱えて出ていくその後ろ姿を、詠はしばらく見送った。

 鎧を脱ぐのって、きっとすごく勇気がいる。

 桧山さんが今日ここに来てくれたこと。あの本を見せてくれたこと。それがどれだけの決断だったか、詠にはわかる気がした。

 窓の外で、冬の夕陽がオレンジ色に傾いていた。もうすぐ、夜が来る。

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