第11話「ジョバンニが、いなくなる前に」 Part 3
零は書架の影にいた。
背を向けたまま、動かなかった。壁にもたれて、腕を組んで、天井の蛍光灯を見上げていた。いつもの姿だ。くたびれた白シャツ。灰色のチノパン。前髪が目にかかって表情が読めない。左の袖がわずかに捲れている。いつもそうだ。右はきちんとしているのに、左だけ雑で、そのアンバランスさが零らしかった。
でも今日は、いつもと違った。
詠は零のところへ行こうとした。でも足が止まった。書架の隙間から見えた零の横顔が、知らない顔をしていたから。唇の端が下がっている。目がどこも見ていない。本棚に囲まれた薄暗い通路の中で、零は初めて「零」じゃない顔をしていた。
ツッコミも毒舌も皮肉もない。ただの、感情を持て余している誰か。原作の葉蔵が道化の仮面を外した、その奥にあるものみたいな。
「……零」
呼びかけると、零は天井を見たまま答えた。
「……早く帰れ。明日も授業あるだろ」
「まだ八時前だよ」
「だから早く帰れって言ってんだろ。母親に心配かけんな」
いつもの調子だった。ぶっきらぼうで、乱暴で、照れ隠しの。でも声が少し低かった。いつもの零の声は皮肉を含んだ軽さがあるのに、今日はその軽さが消えていた。
「零、あのさ」
「なんだよ」
「寄贈のこと、反対?」
零が初めてこちらを見た。前髪の奥の目が一瞬だけ光った。
「……お前が決めたことだろ。反対とか賛成とかない」
「でもさっき何か言いかけた」
「言ってない」
「言った。『お前、それ』って。聞こえてた」
零が小さく舌打ちした。それから視線を逸らして、本棚の背表紙を指でなぞった。タイトルを読んでいるわけじゃない。考えるときの癖だ。零がこうやって背表紙を指でなぞるとき、頭の中で言葉を探している。たくさんの言葉を知っているくせに、自分の気持ちを伝える言葉だけが見つからないときの仕草。こういう小さなことを、いつの間にか覚えていた。
「……お前のその本、大事なんだろ」
「うん」
「親父さんの字が書いてある、世界に一冊の本なんだろ」
「うん」
「転校するたびに持ち歩いてたんだろ。友達がいなくなってもそれだけは」
「……うん」
「それを手放すのは馬鹿だ」
「うん」
「わかってんなら」
「でも、ジョバンニがいなくなるほうが嫌だから」
零の指が止まった。本棚の背表紙の上で、ぴたりと動かなくなった。
数秒間の沈黙があった。長い数秒だった。図書室の時計のカチカチがやけに大きく聞こえた。
「……そうかよ」
零はそれだけ言った。
何かがおかしかった。零の「そうかよ」は、いつもなら「勝手にしろ」か「好きにしろ」がセットで来る。それがいつものリズムだ。毒を吐いてから優しさを隠す、零の話し方のリズム。でも今日はリズムが崩れていた。「そうかよ」と言い終えたあと、零の唇が薄く開いたまま止まって、何かを飲み込んだ。
何を飲み込んだの。
聞けなかった。聞いてはいけない気がした。零の中にある、鏡に映らない場所のものを、無理にこじ開けてはいけない。
零は壁から背中を離して、真っ直ぐ立った。まだこちらを向いていなかった。
「……頑張れよ」
「え?」
「お前の言葉で、ここを変えろ。お前が始めたことだろ。お前が毎日来て、ポップ書いて、掲示板作って、文化祭やって、ここまで来たんだろ。……だったら最後まで行け」
零の声が低くなった。でもはっきりしていた。
「……零」
「毎日来い」
零は振り向かなかった。
壁にもたれるのをやめて、書架の通路にまっすぐ立っているのに、背中だけをこちらに向けていた。
振り向いたら何かがバレると思ったのだろうか。唇の端が下がっていることが。目が揺れていることが。「そうかよ」の裏に、声にならなかった言葉があることが。
詠にはわからない。零のことは「わかる」とずっと思っていた。鏡みたいだと。知られることが怖い詠と、読まれることが怖い零。同じ場所にいると思っていた。でも今夜の零の背中は、鏡じゃなかった。鏡に映らない場所に、零の本当の感情があった。それが何なのか、詠にはまだわからない。
「零」
「なんだよ。しつこいな」
「……ありがとう」
「だから礼を言うなって。気持ち悪い」
「言う。何回でも言う」
零が肩を小さく揺らした。笑ったのか怒ったのかわからなかった。「……勝手にしろ」と言った声は、いつもより少しだけ柔らかかった。ほんの少しだけ。でも詠は聞き逃さなかった。
帰り支度をしていたら、アリアが走ってきた。目はまだ少し赤かったけど、表情はいつものアリアに戻りかけていた。回復が早い。この子はいつもそうだ。泣いても怒っても、次の瞬間にはお茶会の話をしている。その強さに、何度救われたかわからない。
「詠! 明日の放課後、お茶会するから! 絶対来てね! 自販機の紅茶でいいから!」
「……アリアは本当にブレないね」
「ブレないのが取り柄! あ、それと」
アリアが急に真剣な顔になった。さっきまで泣いていた目で、まっすぐ詠を見た。
「さっきの寄贈の話。私はすごいと思った。自分の大事なものを誰かのために差し出すって、すごく勇気がいることでしょ。私にはたぶんできない。だからありがとう」
校門を出た。十一月の夜風が頬に当たった。冷たくて、鼻の先が少し痛い。でも気持ちよかった。
空を見上げた。星は見えなかった。雲が厚くかかっていて、夜空は灰色だった。さっき書庫の窓から見えていたオリオン座も、もう隠れてしまった。
でも、あるんだよな。どこかに。
その言葉が、自然に浮かんだ。いつかジョバンニが言った言葉と同じだった。曇っていてベガが見えない夜に「見えなくても、あるよ。ずっと」と言ったジョバンニ。あの声が、まだ耳の奥に残っている。
鞄の中の文庫本に手を触れた。明日、これを烏丸先生に渡す。父の字で「詠へ」と書かれた表紙を、もう一度だけ指でなぞった。インクが少しかすれている。でも読める。ちゃんと読める。十七年間、ずっと。
手放すのは怖い。正直に言えば、今すぐ鞄のチャックを閉めて、やっぱりやめたと言いたい。この本は詠のものだ。お父さんがくれた、詠だけのものだ。
でもこの本が図書室の棚に並んで、知らない誰かの手に渡って、その人の中で新しい旅を始めるなら。それは喪失じゃない。本が本であり続けるということだ。読まれることで命が続く。書人たちが、そう教えてくれた。
「……お父さん」
声に出してみた。白い息が夜空に溶けた。
「あなたの本、みんなの本にするね」
返事はなかった。当たり前だ。でも鞄の中の文庫本が、少しだけ温かい気がした。
明日も図書室に行く。明後日も。来週も。
零が「毎日来い」と言った。ジョバンニが「消えたくない」と言った。紫乃が「残ってほしい」と言った。アリアが「いてほしい」と言った。四つの声が胸の中にある。重くて、温かくて、少し痛い。




