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第11話「ジョバンニが、いなくなる前に」 Part 2

 ジョバンニが何か言おうとした。唇が動いた。でも声にならなかった。

 代わりに、手を伸ばしてきた。詠の手に触れようとして、半透明の指先が何の抵抗もなく通り抜けた。風が吹き抜けるみたいに。何もなかったみたいに。あるはずの手がないみたいに。


 夏の日のことを思い出した。七月のまだ蒸し暑い夕方、本棚の前で落ちそうな本を二人同時に支えたとき、指先が触れた。確かに温度があった。「あ、温かい」と詠が言って「……うん。君も」とジョバンニが答えた。たったそれだけのことが、ずっと胸の奥に残っている。指先の温度だけじゃない。あのときジョバンニが少年みたいな顔をしたことも。少し驚いて、少し嬉しそうだったことも。


 あの温度が、もうない。


 ジョバンニが自分の手を見た。通り抜けた右手を、左手で握ろうとしてそれも透けた。自分の手すら掴めない。何度か指を握ったり開いたりして、そのたびに指同士がすり抜けるのを見ていた。まるで自分が本当にここにいるのか、確かめているみたいだった。

 その光景が痛かった。胸が潰れそうだった。零のことを「わかる」と思ったときとは違う種類の痛みだった。零は鏡だ。自分と同じ形をした痛みが映る。でもジョバンニは窓の外の星だ。手が届かなくて、でも目を逸らせなくて、近づこうとすればするほど遠くなる。この前は触れたのに。もう、触れない。


「……消えたくない」


 ジョバンニが言った。

 初めてだった。

 今まで一度も言わなかった言葉だった。「怖いけど、君に無理をさせてまで存在したいわけじゃない」と穏やかに笑って、窓の外の星を見て、詩みたいなことを呟いて、全部受け入れたふりをしていた。この人はいつもそうだった。自分の痛みを星や雲や風の言葉に変えて、本音を遠い場所に置いてしまう。「今日の天気は?」と聞けば「……雲が、旅をしている」と返す人だ。自分のことを語る言葉を、最初から持っていないみたいに。

 でも今、声が震えていた。目が揺れていた。半透明の体の奥で心臓が動いているのが見えるような気がした。


「消えるな」と私は言った。

「……わがままだね、詠は」

「わがままでいい」

「うん」


ジョバンニが小さく笑った。泣いているみたいな笑い方だった。


「……わがままでいいよ。君は」


 詠は手を引かなかった。触れなくても、通り抜けても、そこに手を置いた。ジョバンニが一瞬消えかけたとき、通り抜けた手を引かなかった。届かなくてもここにいる。それしかできないならそれをする。


 零が何か言おうとした気配がした。書架の向こうで息を吸い込む音がした。

 でも、言葉にはならなかった。

 静かに背を向ける足音。書架の間を歩く靴の音が、規則正しく遠ざかっていく。紫乃がその横顔を見ていた。詠も見てしまった。零の唇の端が、初めて下がっていた。いつもは皮肉に上がっているか、呆れたように横に引かれているか、どちらかだった。今日の零の口元を、詠は見たことがなかった。

 呼びかけようとして、やめた。今はまだ、ジョバンニの前にいなければいけない。


 しばらく誰も話さなかった。長い沈黙だった。図書室の時計の秒針がカチカチと鳴って、外から十一月の風の音がした。窓ガラスが微かに震えていた。カーテンの裾が揺れるのを、ジョバンニがぼんやりと見ていた。

 沈黙を破ったのは、紫乃だった。


「詠さん」


 紫乃の声は、いつもと同じ穏やかさだった。でも、どこか違った。いつもの紫乃には「海の向こうの嵐を見ている」ような達観した静けさがあった。怖いものが遠くなっていくと言った、あの静けさ。今夜はその距離が消えていた。紫乃がすぐそばにいた。同じ場所に立って同じ方向を見ていた。


「私も……消えることを、怖いと思った日がありました」


 詠は六月の夜を思い出していた。修復が必要な古い『源氏物語』の話をしたとき、紫乃は「千年生きると、怖いものが遠くなっていく」と言った。海の向こうの嵐を見るようなものだと。


 嘘だ。


 本当はずっと嵐の中にいたんだ。千年間ずっと。


「誰にも『消えないでほしい』と言われたことがなかった。あなたが来て、初めて」


 紫乃の声がわずかに揺れた。重さを持った揺れだった。蛍光灯の薄い光の中で、紫乃の深紫色の重ね着が揺れた。層が多い服。その層の一枚一枚が、百年ずつの孤独みたいに見えた。

 紫乃が詠を見た。深い紫色の瞳が、潤んでいた。千年間泣かなかった人の目が。


「だから……あなたにいてほしい。ここに」


 紫乃がそう言った。声は静かだった。でも重さがあった。

 目の奥が熱くなった。視界がにじんだ。眼鏡を直した。

 紫乃はそれに気づいている。「ああ、今のは泣きそうなやつだ」と。でも優しさで見て見ないふりをしてくれる。

 アリアが紫乃の袖をぎゅっと掴んだ。小さな手が、深紫の布を握りしめていた。


「……私も」


 アリアの声が震えていた。いつもの元気な声じゃなかった。「なんで」も「お茶会」も「有罪」もない裸の声。


「詠に、いてほしい」


 アリアの目が赤くて、唇を噛んでいた。靴下は左が水色で右がオレンジ。いつもみたいにちぐはぐで、いつもみたいにアリアで。でも今夜だけは、その明るい色が泣いているように見えた。金髪のショートボブが、うつむいた拍子にふわっと揺れた。

 紫乃がそっとアリアの頭を撫でた。金色の髪をゆっくり何度も。アリアが紫乃の膝に頭を乗せた。いつもの光景だった。でも今夜は、二人ともいつもより少しだけ強く互いに触れていた。離さないように。離れないように。

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