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第11話「ジョバンニが、いなくなる前に」 Part 1

 十一月の図書室は、夏の頃とは別の場所みたいだった。

 三行レビュー掲示板には色とりどりの付箋が貼られていて、月替わり特集コーナー「秋の夜長に読みたい一冊」の前では、放課後になると必ず誰かが立ち止まる。文化祭のあと、図書室に来る生徒の数は確かに増えた。

 烏丸先生が「最近、カウンターが忙しくて嬉しいわ」と文庫本をポケットにしまいながら笑っていた。先生のポケットはいつも文庫本で膨らんでいる。何冊入っているのか聞いたことはないけれど、たぶん二冊だ。左右のポケットの膨らみ方が微妙に違うから。


 図書室は息を吹き返した。

 書人たちの顔色も良くなった。アリアの靴下の色は鮮やかさを取り戻して、今日は左が黄色で右が赤。紫乃の扇を持つ手にもう気だるさはないし、零の声のかすれも消えて、ツッコミのキレが戻っていた。昨日も「お前のポップ、字が右肩上がりすぎ。登山してんのか」と言われた。「読めればいいでしょ」と返したら「読めるかどうかの問題じゃない。美意識の問題だ」と来た。相変わらずだ。


 ジョバンニを除いて。


 そのことに気づいたのは、先週のことだった。みんなが元気になっていく中で、一人だけ取り残されている人がいると。

 整理ボランティアの時間。書庫の奥に入ると、ジョバンニは古い書棚の影に座っていた。膝を抱えて、窓の外を見ている。十一月の夜空は澄んでいて星がよく見えた。オリオン座がもう東の空に上がり始めている。冬の星座だ。ジョバンニに教えてもらったからわかる。

 でもジョバンニの体は、その星の光を透かしていた。


「ジョバンニ」


 声をかけると、ジョバンニがゆっくりこちらを向いた。暗がりの中で光る目。最初に会った四月の夜と同じだった。でも輪郭が薄い。いつもは黒いコートの裾まではっきり見えるのに、今日は足元がぼんやりと溶けて、床との境目がわからない。膝を抱える腕も、よく見ると向こう側の本棚が透けている。


「……やあ、詠」


 一拍置いて名前を呼ぶ、あの間。変わらない。変わらないのに声がどこか遠い。すぐそこにいるのに、硝子一枚を隔てたような距離感がある。


「報告があるの。今月の特集コーナー、結構人が来てて」

「うん。知ってる」

「掲示板のレビューも増えたし、先週なんか一年生が五人くらいまとめて来て、日向の後輩のサッカー部の子がレビュー三枚も書いてくれて」

「詠」


 ジョバンニが静かに遮った。口調は穏やかだった。でも、その穏やかさがかえって怖かった。


「図書室が元気になってきたのは、わかってるよ」

「……うん」

「でも『銀河鉄道の夜』の貸出は、増えてない」


 わかっていた。貸出記録は毎日確認している。カウンターの端末を開くたびにあの一行を探す。日向が夏に借りてくれた。それ以降、ゼロ。特集コーナーに並べた。ポップも書いた。零が「ハードル下げすぎ」と文句を言いながら書き直してくれたポップも置いた。莉子が作ってくれたブックカバー型カードも添えた。

 でも、誰も手に取らない。何十人もの生徒が図書室を訪れるようになったのに、あの背表紙に手を伸ばす人はいない。


「足りないんだよね」と私は言った。声が震えそうになって、眼鏡を直した。

「足りない、っていうか」ジョバンニが少し首を傾げた。ボサボサの髪が揺れた。「日向が読んでくれたのは嬉しかった。でもあれは、詠が頑張ってくれたからだ。詠が薦めて、詠が背中を押して、詠の言葉で届けてくれた」

「それの何がいけないの」

「いけなくない。ありがたいよ。でも本そのものが求められたわけじゃない」


 ジョバンニは自分の手を見た。半透明の向こう側が透けて見える手。本棚の木目がその手を通して見えていた。九月にはここまで透けていなかった。一ヶ月ごとに確実に薄くなっている。あの手でページをめくることも、もうできないんじゃないか。


「僕は、それでいいと思ってる」


 その言葉が胸の奥に刺さった。「消えることは怖いけど、君に無理をさせてまで存在したいわけじゃない」。あのときも怒った。今も怒っている。あのときよりもっと。だってあれから詠はずっと。


「嫌だ」


 声が出た。思ったより大きかった。書庫の天井に反響した。


「あなたが消えるのが嫌。夜の図書室で星の話をしてくれる人がいなくなるのが嫌。ベガの場所も、アルタイルの場所も、オリオンの三つ星の名前も、あなたに教えてもらった。曇ってても星はあるって教えてくれたのはあなたでしょ。その人がいなくなるなんて」


 言葉が詰まった。喉の奥が熱い。

 ジョバンニが詠を見ていた。静かに、まっすぐに。あの目だけは透けない。暗い中で星みたいに光る目だけは、最初の夜から何一つ変わらない。


「……ありがとう」

「ありがとうじゃない。諦めないで」

「諦めてるわけじゃないよ。ただ」

「ただ、じゃない」


 詠は鞄に手を入れた。指先が、使い込まれた紙の感触に触れた。角が丸くなった文庫本。表紙は色褪せて、背表紙には細い皺が入っている。何度も開いたから。何度も読んだから。

 この本だけは、どこに転校しても鞄の中にあった。友達がいなくなるたびに、新しい教室で息を止めるたびに、この本の重さだけが詠を繋ぎとめていた。引っ越しの段ボールの中で、この本だけは自分の鞄に入れた。毎回、必ず。

 表紙に、父の字で「詠へ」。少し右上がりの丁寧な字。

 世界に一冊だけの詠の本。


「……これを、図書室に寄贈する」


 自分の声が、自分のものじゃないみたいだった。

 空気が変わった。書庫の隅で本を読んでいた零が顔を上げた。棚の向こうでアリアが息を呑む音がした。紫乃の扇が止まった。図書室の時計の秒針だけが、何事もないようにカチカチと鳴っていた。

 零が立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、静寂の中で大きく響いた。


「お前、それ」

「私だけの本じゃなくて、みんなの本にする」


 声は震えていた。指も震えていた。でも止まらなかった。止まったらきっともう言えなくなる。


「そうすれば誰かが借りてくれるかもしれない。お父さんから私に届いた本が、次は誰かに届く。それが本ってことでしょ」


 ジョバンニが詠を見ていた。光る目が揺れていた。暗い中で瞬く星みたいに。


「……いいの?」

「よくない」


 正直に言った。嘘はつけない。つく必要もない。ここは夜の図書室だから。


「本当は手放したくない。お父さんがくれた、私だけの本。転校するたびに友達を置いてきた。電話番号を交換しても、メッセージのやりとりは三ヶ月で途絶えた。それでもこの本だけはずっと一緒だった。手放すなんて、一度も考えたことなかった」


 文庫本を両手で握りしめた。指の間から古い紙とインクの匂いがした。父の匂いだと思った。小さいころ、読み聞かせてもらった夜の匂い。


「でもあなたが消えるのと、この本を手放すのと、どっちが嫌かって聞かれたら」


 声が割れた。視界がぼやけた。眼鏡を直す余裕もなかった。


「答えは、決まってる」

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