第10話「文化祭、開幕」 Part 3
文化祭が終わった。
片づけを終えた図書室は、がらんとしていた。さっきまでの賑わいが嘘みたいに静かで、西日が窓から差し込んで、本棚の影を長く伸ばしている。
莉子と日向は先に帰った。莉子は「また明日ね」と手を振った。日向は「お前、今日はちゃんと寝ろよ。目の下のクマやばいから」と言って頭をぽんと叩いた。
烏丸先生が「閉館後整理ボランティア、今日もお願いしていい?」と聞いてきた。
「……はい」
先生が鍵を渡して帰っていく。詠は一人になった。
夕暮れが過ぎて、空が暗くなっていく。図書室の蛍光灯の下で、詠は本棚を見つめた。感情分類の棚はもう元に戻したけれど「夜の司書からの手紙」のパネルだけは、まだ壁に残してあった。
零の文章。アリアの文章。紫乃の文章。ジョバンニの文章。
今日、たくさんの人がこの言葉を読んだ。泣いた人がいた。笑った人がいた。立ち止まった人がいた。
みんなの言葉が、届いた。
そう思ったとき、本棚がかすかに光った。
「おかえり」
アリアが、カウンターの上に座っていた。靴下は左が水色で右がオレンジ。
「お茶会まだ?」
「……文化祭終わったばっかりなんだけど」
「だからお茶会でしょ! お疲れ会!」
零が壁にもたれていた。くたびれた白シャツのボタンがいつもより一つ多く開いている。
「……で? どうだったんだよ」
「何が」
「文化祭。お前の展示」
「……零の文章の前で泣いてる人がいたよ」
零が一瞬、固まった。
「……泣いて?」
「うん。三年生の女子。あと、日向が零の文章を『旅の途中にいるみたい』って言ってた」
「……あの体育会系が?」
「本読める人だよ、あの人」
零が顔を背けた。耳が赤い。
「……べつに。そういう反応を期待して書いたわけじゃ」
「知ってる。でも届いたんだよ、零の言葉」
零が何か言おうとして、やめた。代わりに前髪をかき上げて、天井を向いた。唇の端がわずかに震えているのが見えた。笑っているのか、泣きそうなのかわからなかった。
「……うるさい」
それだけ言って黙った。
紫乃が奥の書架から静かに現れた。扇を口元に当てて微笑んでいる。
「大盛況だったようですね」
「紫乃さんの文章、先生たちが声に出して読んでました。品格がすごいって」
「まあ。千年は伊達ではありませんから」
「自分で言うんだ……」
「ふふ。冗談ですよ」
紫乃が扇で口元を隠した。でも目が笑っていた。嬉しいのだ。千年ぶりに、自分の言葉が誰かに届いたことが。
ジョバンニは窓際にいた。いつもの場所だ。窓の外を見ている。
詠は近づいた。ジョバンニの体はまだ薄い。でも、先週よりは、ほんの少しだけ輪郭がはっきりしている気がした。
「ジョバンニ」
「……うん」
「日向がね、ジョバンニの文章のこと聞いてきた。『誰が書いたの』って」
「……なんて答えたの」
「友達だよ、って」
ジョバンニが少し驚いた顔をした。それから、ゆっくりと笑った。暗がりの中で、目が光った。星みたいに。
「……友達か」
「うん」
「……嬉しいな」
ジョバンニの声は静かだった。でもその静けさの中に、確かに温度があった。
詠はジョバンニの隣に立った。二人で窓の外を見た。空は曇っていて、星は見えなかった。
「……今日は見えないね」
「……うん。でも」
「あるんだよね、どこかに」
「……覚えてるんだ」
「忘れないよ」
ジョバンニが詠を見た。詠もジョバンニを見た。手を伸ばせば触れる距離。でも触れない。通り抜けてしまうから。それでも、この距離にいることが、今は嬉しかった。
零のことを考えると、胸が「わかる」って震える。ジョバンニのことを考えると、胸が「わからない」って震える。どっちも本当で、どっちも大切で。名前はまだ、つかない。
零がその二人を見ていた。壁にもたれたまま、腕を組んで。表情は読めなかった。でも組んだ腕に、少しだけ力が入っていた。
紫乃がそっと零の横に立った。何も言わなかった。ただ、扇を閉じて、同じ方向を見ていた。
アリアがカウンターから飛び降りた。
「ねえ、あとさ、大事なこと聞いてない。集客目標は? 超えたの?」
詠は頷いた。
「午後の時点で超えた。最終的には、目標の倍近くまでいった」
アリアが「やったー!」と跳ねた。靴下の水色とオレンジが空中で交差する。紫乃が「まあ」と扇を広げた。零が何も言わなかったけれど、唇の端がわずかに上がった。笑っているのだ。あの、いつもの皮肉じゃない方の笑い方。
「桧山さんも見に来てくれたんだよ」と詠が付け加えた。
「あの生徒会の?」と零が片眉を上げる。
「うん。零の文章の前で、ちょっとだけ表情が変わった」
「……ふうん」
零が視線を逸らした。でもさっきより、もう少しだけ口角が上がった気がした。
「それとね、桧山さん……手帳の中に文庫本を隠してるの。ずっと前から知ってたけど、今日初めて確信した。あの人も本が好きだったんだと思う。子どもの頃は」
「今は?」
「今は手帳を読むんだって。でもいつかまた本を読む人に戻るかもしれない」
紫乃が静かに言った。
「本を手放した人が、また本に戻る。それは……とても、長い旅ですね。でも、道はつながっています」
「紫乃さん、今日は名言モード全開ですね」
「千年生きるとこうなります」
「自覚あるんだ……」
「ふふ」
アリアが「いつまでしんみりしてるの! お茶会しよ! 今日はお祝いなんだから!」と割り込んだ。
「……自販機の紅茶だけど」詠が苦笑する。
「いいの! みんなで飲めば何でもお茶会!」
「……それは正しいな」零が壁から背中を離した。
「正しいでしょ? アリアは正しい!」
「調子に乗るな」
「有罪! アリアの正しさを否定するのは有罪!」
「何の罪だよ」
「退屈罪!」
「意味が変わってるぞ」
紫乃が「まあまあ」と扇で二人の間に割って入った。ジョバンニが窓際で静かに笑っている。
詠は自販機に紅茶を買いに行った。五人分。温かいやつ。
戻ってきて、みんなに配った。アリアが「かんぱーい!」と叫んだ。零が「ペットボトルで乾杯すんな」と言いながら、ちゃんと持ち上げた。紫乃が両手で丁寧に受け取った。ジョバンニがペットボトルを両手で包んで「……温かい」と呟いた。
詠はペットボトルの中の紅茶を見た。蛍光灯の光を反射して、琥珀色に光っている。
半年前の自分はここにいなかった。「どうせ転校する」「本だけは裏切らない」。そう思って人から距離を取っていた。本の外の世界に、居場所なんてないと思っていた。
でも。
今、ここにいる。この人たちと。この図書室で。自販機の紅茶を飲みながら。
零の言葉が泣かせた人がいる。アリアの言葉が笑わせた人がいる。紫乃の言葉に足を止めた人がいる。ジョバンニの言葉を覚えている人がいる。
莉子が、ずっと読んでくれていた。
日向が、ちゃんと読んでくれた。
烏丸先生が、見ていてくれた。
届いてた。全部、届いてた。
詠は紅茶を一口飲んだ。温かかった。少し甘くて、少し苦くて、それがとても良かった。
眼鏡を直した。
泣きそうなやつじゃなかった。嬉しいやつだった。
「……みんな」
「ん?」とアリア。
「なに」と零。
「はい」と紫乃。
「ん……」とジョバンニ。
「……ありがとう」
静かに言った。震えなかった。ちゃんと、声になった。
アリアが「えへへ」と笑った。零が「……聞こえなかった」と言った。聞こえてた。紫乃が扇の向こうで目を細めた。ジョバンニが一拍置いて「……詠」と名前を呼んだ。
それだけで、十分だった。
窓の外は曇っていて、星は見えなかった。でも、あることは知っている。雲の向こうに、ずっと。




