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第1話「夜の図書室には、秘密がある」 Part 3

「それで……私に何をしてほしいの」


 詠は訊いた。声は落ち着いていたつもりだった。でも眼鏡を直す手が微かに震えていることに、本人だけが気づいていなかった。

 紫乃が一歩、前に出た。扇を胸元で閉じて、まっすぐ詠を見た。千年の時を生きた人の目だった。深くて、静かで、底が見えない。


「夜の司書を、やっていただけませんか」

「夜の、司書」

「私たちの相談に乗り、蔵書を守る手助けをしてくださる方が必要なのです。書人だけでは昼の世界に手が届きません。本を借りてもらうための工夫も、図書室を訪れる人間を増やすことも、夜しか動けない私たちにはどうすることもできないのです」


 零が鼻で笑った。壁にもたれ直して、腕を組む。


「断っていいよ。別にこいつらが頼んでるだけで、義務じゃない」

「零さんも頼んでいるのでは?」と紫乃。

「頼んでない」

「先ほど壁から離れてこちらに歩み寄っていらっしゃいましたが」

「……姿勢を変えただけだ」

「姿勢を変えるために三歩も歩くのですか」

「歩く」


 零がそっぽを向いた。耳が少し赤いように見えたのは、本棚の光のせいかもしれないし、そうでないかもしれない。

 アリアが本棚の上から飛び降りてきた。着地が猫みたいに軽い。音がほとんどしなかった。スカートの裾がふわりと広がって、左右色違いの靴下がぴたりと床についた。


「ねえねえ、やってよ! 司書! そしたら毎晩お茶会できるし!」

「お茶会が目的なの?」

「お茶会は人生に不可欠なの! お茶会のない夜は月のない夜と同じ! つまり有罪!」

「有罪って何の罪……」

「退屈罪!」


 めちゃくちゃだった。論理が完全にどこかの国の仕様で動いている。不思議の国の、と詠は思って、ああそうかと納得した。この子は『不思議の国のアリス』から生まれたのだ。だからお茶会に執着するし、すぐ裁判を開きたがるし、質問を立て続けに浴びせてくる。本の中の性質を、個性としてそのまま引きずっている。本人はたぶん、それを「自分らしさ」だと思っているのだろう。


 詠はゆっくりと四人を見回した。紫乃の重ね着、アリアの左右違いの靴下、零のくたびれたシャツ、ジョバンニの泥のついたコート。全員が本の中から抜け出したまま、ここにいる。それぞれの物語の匂いを纏って、それぞれの言葉で喋って、ひとつの図書室の中で夜を過ごしている。


「……考えさせて」


 それが詠の答えだった。即答できなかった。面白いとは思った。いや、面白いどころではない。本から人が生まれるなんて、本好きの人間にとってこの世で最も心躍る出来事ではないか。

 でも「面白い」だけで飛び込むには、詠は慎重すぎた。何度も転校を繰り返すうちに身についてしまった習性がある。居場所に愛着を持つと、離れるときに痛い。深く関われば関わるほど、切れたときの傷が深くなる。

 だから最初から浅く。最初から「仮」のつもりで。そうやって自分を守ってきた。守って、守って、守りすぎて、気づいたら手の中に何も残っていなかった。

 紫乃が微笑んだ。急かす色はどこにもなかった。


「もちろんです。お待ちしております」


 アリアが「えー! 今すぐがいい!明日まで待てない! 明日って今日の続きなんだから今決めても同じでしょ!」と騒いだ。零が「うるさい。理屈になってない。追いかけ回すな」と言った。紫乃が「まあまあ」と扇で口元を隠しながら笑った。この掛け合いが通常運転らしかった。こういう夜が、詠が知らなかっただけで、ずっとここで繰り返されていたのだ。


 帰ろうとして上着を取った。椅子の背にかけたまま忘れていた上着。これを忘れなければ、ここには戻ってこなかった。偶然だ。ただの偶然。でも本が好きな人間はこういうとき「運命」という言葉が頭をよぎってしまう。物語の読みすぎだ。現実には運命なんてない。


「……君」


 背中に声がかかった。ジョバンニだった。窓際から動かないまま、こちらを見ていた。暗い空を背負って、輪郭だけが淡く光っている。


「……君、本当は居場所がほしいんじゃないの」


 足が止まった。

 心臓を、直接つかまれたみたいだった。

 振り返る。ジョバンニは窓枠に背を預けていた。星の見えない夜だった。四月の空は曇っていた。でもジョバンニの目だけが光っていて、そこだけ晴れているみたいだった。暗い図書室の中で、あの目だけが遠い星の光を宿している。


「……誰にでも言うの、そういうこと」


 声が、思ったより小さかった。眼鏡を直した。指先が冷たかった。このクセは小学生の頃からだ。照れたとき、悔しいとき、泣きそうなとき、いつも眼鏡に手が伸びる。感情を隠すための動作。今はたぶん、全部だった。照れているし、悔しいし、泣きそうだった。見透かされたことが。初めて会った、人間でもない存在に、いちばん隠しておきたかったことを言い当てられたことが。

 ジョバンニが黙った。一拍。二拍。長い沈黙だった。窓の外で風が鳴った。詠は「やっぱりいい」と言おうとした。この沈黙に耐えきれなくて、自分から話を閉じてしまおうとした。逃げ足だけは速い。いつもそうだ。


「……詠」


 名前を呼ばれた。

 ただそれだけだった。「柊木さん」ではなく「詠」。一拍の間を置いてから、静かに、丁寧に、壊れやすいものにそっと触れるみたいに。声が空気の中をまっすぐ飛んできて、詠の胸のまんなかに着地した。


「誰にでも言わない」


 心臓が跳ねた。一回、大きく。自分でもびっくりするくらいはっきりと。何か言い返そうとした。気の利いた台詞を探した。皮肉でも冗談でもいい、この場をやり過ごすための言葉を。でも何も出てこなかった。代わりに耳の奥が熱くなって、眼鏡を直す手が二度、三度と動いた。


(何、今の。なんで名前呼ばれただけでこんな……本の話でしょ? 本から生まれた人でしょ? 人じゃないんでしょ? それなのにこの心臓、うるさいんだけど)


「……帰る」


 それだけ言って背を向けた。扉を開けて、廊下に出た。振り返らなかった。振り返ったら何かが決定的に変わる気がした。この図書室に通う理由ができてしまう。それは、ここを居場所だと認めることだ。居場所を認めれば、いつか失う痛みを先払いすることになる。

 廊下を歩く。早足。ほとんど走っていた。昇降口で靴を履き替える手がもたついた。左右を間違えてやり直した。


 校門を出て、夜風に当たって、やっと息がつけた。四月の夜の空気は冷たくて甘い。どこかで桜が散っている匂いがした。

 空を見上げた。曇っていた。星は見えなかった。


(でも、あるんだよな。雲の向こうに)


 そう思ったのは、さっきジョバンニが窓の外を見ていたからだ。「星が困っている」と言ったあの声が、まだ鼓膜の奥に残っている。ばかみたいだと思う。でも、嫌じゃなかった。


 帰り道、スマホを開いた。SNSの読書アカウント。フォロワー二十三人の、誰にも教えていない場所。短い書評を投稿する、詠だけの居場所。投稿画面を開いて指を止めた。今日のことは書けない。書いたら嘘みたいになる。嘘じゃないのに。少し迷ってこう打った。


「今日は信じられないものを見た。

 でもまだ信じていいかわからない。

 信じたら、また失くすかもしれないから。」


 投稿ボタンを押した。数秒後、いいねが一つついた。いつも最初にいいねをくれる同じアカウント。名前も顔も知らない誰か。どんな短い投稿にも、必ず最初に反応してくれるこの人。


(この人、誰なんだろう。いつも、すぐ読んでくれるな)


 少しだけ口元がゆるんだ。

 鞄の中に手を入れて文庫本に触れた。日焼けした表紙。ひび割れた背表紙。見返しの「詠へ」の文字。五回の転校を一緒に乗り越えてきた、世界にたった一冊の本。

 その本から生まれた少年が、今夜、詠の名前を呼んだ。

 答えは、たぶんもう決まっていた。まだ口にしないだけで。

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