第10話「文化祭、開幕」 Part 2
午前中だけで、来場者は五十人を超えた。
図書室がこんなに人であふれているのを、詠は見たことがなかった。普段は放課後でも数えるほどしか人がいない場所。それが今、あちこちで笑い声や感嘆の声が上がっている。
「夜の司書からの手紙」コーナーの前に人だかりができていた。
詠はカウンターから、その様子をこっそり見ていた。
零の文章の前で、三年生の女子生徒が立ち止まっていた。じっと読んでいる。長い時間をかけて、二度、三度と読み返している。そしてその子の目が赤くなった。
「この人の文章、やばくない?」
隣にいた友人に声をかけている。
「誰が書いたの、これ」
友人が首を傾げる。
「匿名だからわかんない。でもさ、この人すごいね。本当に本のことが好きで、でもそれを素直に言えなくて……なんか、わかるんだよね」
詠の胸が熱くなった。
零。泣いてる。あなたの言葉で、泣いてる人がいる。
後ろから莉子が「柊木さん、あの人たち感動してるよ」とささやいた。詠は「……うん」とだけ答えた。それ以上言うと、自分が泣いてしまいそうだった。
アリアの文章の前では、男子生徒たちが笑っていた。
「なんでなんでなんでって書いてある」
「答え出てないじゃん」
「でもなんか元気出る」
それがアリアなんだよ。答えが出なくても、問い続けることが答えなんだって、本気で信じてる子なんだよ。
紫乃の文章は、先生たちが声に出して読んでいた。「この文体の品格はすごい」と国語の先生が感心している。
千年分の品格です、と心の中で呟いた。
そしてジョバンニの文章の前に、日向が立っていた。
日向はしばらくの間、黙って文章を読んでいた。いつもの快活な表情がなりを潜めて、静かな顔をしている。読み終えてから、詠のほうに来た。
「これ、誰が書いたの?」
「……友達だよ」
「友達? お前、こういう文章書く友達がいるんだ」
「うん」
「すげえな。なんか……旅の途中にいるみたいな文章だった。どこに向かってるかわからないんだけど、それでも歩いてるっていうか」
日向。あんた本当にちゃんと読める人だね。
「お前友達多いじゃん」と日向が言った。
詠は一瞬、返す言葉に詰まった。
友達。半年前の自分なら鼻で笑っていた言葉だ。転校生に友達なんていらない。どうせまたいなくなる。そう思っていた。
「……そうかも」
自分で言って、自分で驚いた。
そうだった。いつの間にか。
午後になると、人の波はさらに増えた。三行レビュー掲示板に新しいカードを書いて貼っていく生徒もいる。「自分も書きたい」と言って、白紙のカードを受け取っていく子たちがいる。
詠は忙しかった。カウンターでの対応、本の場所の案内、カードの補充。莉子が手際よくサポートしてくれた。日向は棚の位置を微調整したり、来場者を案内したりしていた。
午後二時。少し人の波が落ち着いたタイミングで、莉子が掲示板の前に立っていた。
じっと何かを見ている。手に持っているのはスマホだ。
詠が「莉子、どうしたの」と声をかけると、莉子がくるりと振り返った。目がきらきらしていた。
「ねえ、これ柊木さんのレビューでしょ」
「うん」
莉子が指差したのは、掲示板に貼られた三行レビューの一枚だった。詠が書いたものだ。
「こういう書き方する人、私知ってる!」
心臓が跳ねた。
「莉子、何の話」
「ほら」
莉子がスマホの画面を見せた。表示されているのはSNSのアカウントページ。アイコンは本の写真。アカウント名は「よむひと」。フォロワー二十三人。
詠の読書アカウントだった。
「それ……」
「私がフォローしてるアカ」
世界が一瞬止まった気がした。
「見てたの?」
「二十三人しかフォロワーいなかったけど、私はずっと見てた」
莉子の声は穏やかだった。でもその中に、ずっと言いたかったことを言うときの、覚悟みたいなものが混ざっていた。
「いいね毎回つけてたの、私だよ」
あのいいね。
毎回、どんな投稿にも必ずひとつだけつく「いいね」。誰かわからなかった。でもずっと嬉しかった。フォロワー二十三人の、ほとんど誰にも見られていない読書アカウント。それでも「いいね」がひとつあるだけで、次も書こうと思えた。
「……あのいいね、莉子だったの!?」
「そうだよ」莉子が笑う。「柊木さんの書評、天才だよ。短いのにちゃんとその本のことが好きなのが伝わる。私、あれ読んで何冊も買ったんだから」
言葉が出てこなかった。
読まれてた。
誰にも届いていないと思っていた。二十三人のフォロワーなんて、いないのと同じだと思っていた。深夜に一人で打ち込んだ短い書評。好きな本のことを、好きだと書いただけの言葉。それが誰かに届くとは思っていなかった。
でも、届いてた。
「……読まれてたんだ」
「読まれてたよ。ずっと」
莉子が笑った。まっすぐに。
詠の目が熱くなった。眼鏡を直した。
あ、今のは泣きそうなやつだ。
わかっていても止められなかった。眼鏡の奥で、視界がにじんだ。
「……ありがとう」
声が震えた。
「莉子。ありがとう」
「こちらこそ。素敵な本、たくさん教えてくれて」
莉子が手を伸ばして、詠の手をぎゅっと握った。温かかった。
本の外にも、わかってくれる人がいた。
ずっとそばにいたのに、気づかなかった。「どうせ転校するから」。その言葉で、どれだけのものを見ないようにしてきたんだろう。
夕方近く。来場者の流れが落ち着いてきた頃、詠はカウンターの数字を確認した。
三桁だった。
桧山さんが設定した集客目標を、午後の時点ですでに超えていた。
超えてる。
信じられなくて、二度数えた。三度数えた。間違いなかった。
「莉子」
「うん?」
「目標、超えた」
莉子が目を丸くして、それから満面の笑みを浮かべた。「やった!」と小声で叫んで、また詠の手を握った。日向が「マジで?」とカウンターを覗き込んで「おーっ」と声を上げた。
そのとき、図書室の入り口に見慣れた姿が現れた。
桧山楓。ショートヘアにきっちりした制服。手帳を胸に抱えている。
桧山は展示の中をゆっくりと歩いた。感情分類の棚、三行レビュー、莉子の看板。その足が「夜の司書からの手紙」コーナーの前で止まった。零の文章を読んでいる。
一瞬だけ、本当に一瞬だけ、桧山の表情が動いた。眉がわずかに緩んで、目の奥に何かが灯ったように見えた。
詠が思い切って声をかけた。
「桧山さんも……本、読みますか?」
少しの間があった。
「……子どものときは読みました」
「今は?」
「……今は手帳を読みます」
それだけ言って桧山は踵を返した。でも詠は見逃さなかった。歩き出すとき、手帳を胸にそっと押さえたこと。いつもの反射速度じゃなくて、大事なものを守るみたいに。
あの中に文庫本がある。桧山さんも読む人だ。
桧山が去ったあと、烏丸先生がカウンターに来た。大きめのカーディガンのポケットから文庫本が半分はみ出している。
「詠ちゃん、おつかれさま」
「先生のおかげです」
「違うよ。これは詠ちゃんが作ったの」
先生が少し目を伏せた。穏やかな表情の中に、かすかな痛みが見えた。
「私が高校で不登校だったとき、図書館の司書の先生が毎日『今日も来たね』って言ってくれたの。それだけ。『大丈夫?』とか『何があったの?』とか聞かないの。ただ、来たことを認めてくれた。それだけで生きてた」
詠は黙って聞いていた。
「だから詠ちゃんが来たとき、わかったんだよ。この子はここが必要な子だって」
先生が微笑んだ。
「でもね、今の詠ちゃんは、ここを必要としている子じゃなくて、ここを必要な場所にしてくれた子だよ」
詠は眼鏡を直した。今度こそ、ちゃんと泣きそうになった。レンズの奥が熱くて、焦点がぼやけた。
「……先生。ありがとうございます」
「こちらこそ。素敵な文化祭をありがとう」
先生はそう言って、ポケットの文庫本を押し込み直しながら去っていった。




