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第10話「文化祭、開幕」 Part 1

 十月の朝は、空気が透明だった。

 詠は校門をくぐりながら、自分の心臓がいつもとは違う速度を刻んでいるのに気づいた。文化祭当日。校舎のあちこちに手作りの看板や風船が飾られていて、朝早い時間なのにもう歓声が聞こえてくる。


 今日だ。


 鞄の中に、昨夜遅くまで確認した展示のチェックリストが入っている。莉子が作ってくれたブックカバー型カードの予備。日向が「朝イチで机の搬入手伝う」と送ってきたメッセージ。烏丸先生が用意してくれた来場者カウンター。

 全部、揃っている。はず。

 詠は図書室の前に立った。扉に手をかける。深呼吸をした。


「遅い」


 扉を開けた瞬間、日向が腕組みをして立っていた。サッカー部のジャージのまま、髪にはなぜか紙テープが絡まっている。


「なんでもう中にいるの」

「七時に来た。隣のクラスの飾りつけ手伝ってたら巻き込まれた」

「だから紙テープ……」

「取って」

「自分で取りなよ」

「後ろ見えないんだよ!」


 詠は呆れながら日向の後頭部から紙テープを引き剥がした。金色のテープが、朝日でちょっとだけきれいに光った。


「ありがと。で、展示の最終確認だろ? 机、搬入しておいたぞ」

「……助かる」

「お前さ、今日くらい『ありがとう』って素直に言えよ」

「……ありがとう」

「おー。言えるじゃん」


 日向がにかっと笑った。やっぱり大型犬みたいだな、と詠は思った。


 図書室の中は、この数週間で見違えるようになっていた。

 詠は立ち止まって、改めて展示を見回した。自分たちが作り上げた空間。何度も確認したはずなのに、こうして朝の光の中で見ると、胸が詰まるくらい綺麗だった。

 入り口に「あなたの人生に刺さる一冊」と大きく書かれた看板。莉子の手作りだ。切り文字が一つ一つ丁寧に貼られていて、まわりに小さな本のイラストが散りばめられている。推し活で鍛えたクオリティは伊達じゃない。


 中に入ると、普段の図書室とはまったく違う空間が広がっていた。

 感情で分類した棚。「泣きたい夜に」「怒りが止まらないとき」「好きって何かわからないとき」「笑いたいだけの日に」「誰かに会いたくなったら」。それぞれの棚に、詠が選んだ本が並んでいる。本の横には三行レビューカードが添えられていて、手に取った人がすぐに「この本がどんな本か」わかるようになっている。


 そして展示の目玉「夜の司書からの手紙」コーナー。

 匿名で展示された四つの文章。書人たちが書いた、それぞれの本への手紙だ。

 あの夜、零が「貸せ」と言って始まった企画書づくりの延長で、詠が「みんなの言葉も展示したい」と提案したとき、最初に原稿を出してきたのは意外にもアリアだった。「書いた!」と差し出された原稿は「なんで」が七回出てきた。紫乃は半紙に筆で書こうとして詠に止められた。ジョバンニの原稿はポエムだった。当然だけど。零は最後まで渋っていたくせに、翌朝にはカウンターの上に原稿が置いてあった。「読むな」と書いてあったが、展示用なのだから読まないわけにはいかない。

 詠はそっと、零の文章が貼られたパネルに手を伸ばした。


「あなたの言葉は、誰にも届いていないと思っているかもしれない。でも、届いている。届いていないと思い込んでいるのは、あなただけだ」


 昨夜、夜の図書室で零がこの文章について何も言わなかったことを思い出す。ただ壁にもたれて「……べつに」とだけ言った。耳は赤かった。アリアが「零、いいこと書くじゃん!」とはしゃいだら「うるさい」と本を投げた。柔らかい本を選んでいた。優しい。

 零。あなたの言葉、今日たくさんの人に読まれるよ。言ったら「知らねえ」って言うんだろうな。でも耳は赤くなるんだろうな。

 詠は小さく笑って、眼鏡を直した。今度は照れ隠しのやつだ。


「柊木さーん!」


 入り口から莉子が駆け込んできた。両手にクラフト紙の袋を抱えている。


「追加のカード持ってきた! あと、受付用のしおりも作ったの。来てくれた人に配ろうと思って」

「莉子……いつ作ったの、これ」

「昨日の夜。三時まで」

「寝てないじゃん」

「徹夜に比べたら余裕だよ」


 莉子が袋から取り出したしおりは、小さな花柄の布で縁取りされていて、一枚一枚に「ようこそ、本の世界へ」と手書きの文字が入っていた。百枚はある。


「莉子、これ全部手書き?」

「うん。でも途中から楽しくなっちゃって」


 詠は莉子の顔を見た。目の下にうっすらクマがあるのに、笑っている。


(この人は、自分のためじゃなくて、私のために夜更かしした。)


 喉の奥がきゅっと詰まった。


「……ありがとう、莉子」

「どういたしまして。さ、並べよ!」


 開場は九時。

 詠は入り口に立って来場者カウンターを手に持ちながら、人が来るのを待った。隣の教室からは模擬店の賑やかな声が聞こえてくる。焼きそばの匂い。どこかでバンドが音合わせをしている。廊下を歩く生徒たちは、たいてい模擬店や体育館のステージイベントに向かっていく。図書室の前で足を止める人はまだ、いない。


 五分。十分。十五分。

 日向が「まだ序盤だろ、焦んなよ」と声をかけてくれたが、詠の手のひらは汗ばんでいた。

 やっぱりダメだったかな。図書室なんて、文化祭で来る場所じゃないのかもしれない。


 桧山さんが設定した集客目標の数字が頭をよぎる。あの数字を超えなければ、ここまでの全部が「やっぱり一過性だった」で終わる。

 詠は自分の指先を見た。本の紙でかさかさになった指。この手で企画書を書いた。この手で本を並べた。この手でみんなの言葉を展示した。

 お願い。誰か来て。


 そのとき、一年生の女子が二人、廊下で立ち止まった。


「ねえ、ここ何?」

「図書室の展示だって。『あなたの人生に刺さる一冊』?」

「なにそれ、面白そう」


 二人が中に入ってきた。詠はカウンターをカチッと押した。手が少し震えた。

 一人目。二人目。

 二人は感情分類の棚を見て「泣きたい夜に、ってやばくない?」「私こっち、好きって何かわからないとき」と笑いながら本を手に取り始めた。一人が三行レビューカードを読んで「うわ、めっちゃ読みたくなる」と言った。もう一人が「借りていい?」とカウンターに来た。


「……はい、どうぞ」


 自分の声が、少し上ずっていた。


 三人目、四人目。男子が二人、日向に引っ張られるようにして入ってきた。「え、俺本読まないんだけど」「いいから見ろって。三行レビューってのがあるから」。男子の一人が「笑いたいだけの日に」の棚を見て「わかる。今日こういう気分」と手を伸ばした。


 五人目。六人目。七人目。

 カウンターの数字が、少しずつ、でも確実に回り始めた。

 莉子が隣で「来てる来てる!」と小さくガッツポーズをしている。日向が親指を立てて笑った。烏丸先生が少し離れた場所から、文庫本をポケットに入れたまま、静かに微笑んでいた。


 来てくれた。本を、手に取ってくれた。

 詠は眼鏡を直した。泣きそうなやつだと自分でわかっていたけど、今だけは泣かないと決めた。

 まだ午前中だ。文化祭は、始まったばかりだった。

 そして「夜の司書からの手紙」は、まだ誰にも読まれていない。あの言葉たちが誰かの目に触れる瞬間を詠はまだ知らない。

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