第9話「文化祭準備と、それぞれの本音」 Part 3
零が書架の影に戻ったあと、詠とアリア、紫乃はジョバンニの姿を見ていた。ジョバンニは窓際で目を閉じている。起きているのか眠っているのかわからない。体の輪郭がゆらゆらと揺れていた。蝋燭の炎みたいに。風もないのに。
アリアが珍しく静かだった。
いつもなら「お茶会!」と叫ぶか「退屈罪で有罪!」と突然の裁判を始めるか、少なくとも「なんで?」を五回は連発しているはずの時間帯だ。なのにアリアは紫乃の隣に座って、膝を抱えていた。左右で色の違う靴下が、薄暗い床の上で小さく丸まって見えた。
いつもの三分の一くらいの存在感だった。空気を支配するほどの声量を持つこの子が、今、こんなに小さく縮んでいる。
「……アリア?」
詠が声をかけると、アリアが顔を上げた。笑おうとした。でもうまく笑えなかったみたいで、唇が変な形で止まった。笑顔の途中で電源が切れたような表情だった。
「……私もね」
声が小さかった。いつもの三分の一くらいの音量。アリアの声がこんなに小さいの、初めて聞いた。
「怖いんだ」
「何が?」
「いつか、誰も私の本を読まなくなること」
詠は言葉を失った。アリアの口から「怖い」という言葉が出てくること自体が信じられなかった。この子はいつだって笑っていた。「なんで?」と問い続けていた。怖がることなんかないみたいに世界の全部に首を突っ込んで、裁判を開いて、有罪を宣告して、お茶会を提案して。そうやって騒いでいたから、怖いものなんてないのだと思っていた。
「なんでって言い続けてきたけど」
アリアが膝を抱える腕にぎゅっと力を込めた。爪が白くなるほど。
「それって、答えが怖かったからかもしれない」
「……どういうこと?」
「答えが出ちゃったら、もう問い続けられないでしょ。『なんで誰も読まないの?』って問い続けてる限り、まだ答えは出てない。まだ終わってない。でも答えが『つまらないから』だったら私、そのあとどうすればいいの? わからないよ。だから問い続けてた。答えを出さないために。終わらせないために」
アリアの論理はいつだってねじれていて、地図がなくて、出口から入って入口から出るような不思議の国仕様だ。でも今夜のアリアの言葉には回り道がなかった。まっすぐ、胸に刺さった。
紫乃がそっとアリアの頭に手を置いた。何も言わなかった。ただ撫でた。千年の時間を生きた指先で、金色のショートボブを、ゆっくりと。何度も、何度も。
アリアが、するりと紫乃の膝に頭を乗せた。目を閉じた。左右色違いの靴下を履いた足が、すとんと力を抜いた。安心したみたいだった。紫乃の膝の上が、この子の一番安全な場所なのだと、詠は思った。
「……でも」
アリアの声が続いた。紫乃の膝の上で、目を閉じたまま。
「詠がいたら、怖くない。なんでって言い続けてられる。答えが出ても出なくても、隣で『うるさいよアリア』って言ってくれる人がいるから。問い続けてるとき、聞いてくれる人がいるって、それだけで全然違うんだよ」
「うるさいとは言ってないでしょ」
「言ってるよ、心の中で」
「……ちょっとだけ、思ってるかも」
アリアがくしゃっと笑った。今度はちゃんと笑えた。紫乃の膝の上で、子猫みたいに丸くなりながら、小さく、でもちゃんと笑った。
紫乃の長い指がアリアの髪を梳いている。アリアが紫乃の重ね着の端を、きゅっと握っている。千年を生きた人と、不思議の国からやってきた子どもが、古い本棚に囲まれた小さな図書室で寄り添っている。たった二人で、世界中の孤独を分け合っているような光景だった。
目頭が、じわりと熱くなった。
眼鏡を直した。泣きそうなときのクセだ。もう自分でわかっている。わかっていても直さずにいられない。手を何かで塞がないと、この感情がどこへ行くかわからなかった。
「詠さん」
紫乃が静かに言った。アリアの頭を撫で続けたまま。
「泣いてもいいんですよ」
「……泣いてない」
「ええ。でも、泣いてもいいんです。ここは、そういう場所ですから」
千年分の優しさが、詠をそっと包んだ。泣いてもいい場所。泣いてもいい人たちの前。でも詠は唇を噛んだ。泣かなかった。泣いたらジョバンニが消えかけていることを認めてしまう気がした。アリアが怖いと言ったことを、本当のことにしてしまう気がした。
だから泣かなかった。代わりに深く息を吸って、吐いた。
「……大丈夫。私、大丈夫だから。文化祭、成功させるから。掲示板も、展示も、全部ちゃんとやるから」
紫乃が微笑んだ。その微笑みの奥にあるものが、詠にはまだ見えなかった。でも、温かかった。
帰り道。
夜の空気が頬に触れた。九月の夜は、もう夏じゃなかった。金木犀の甘い匂いがどこかの庭から漂ってきている。この匂いをかぐと、季節が動いていると感じる。止められない速さで。
歩きながら、考えていた。
零のことを考えると、胸が「わかる」と震える。この人の中にあるものが見える。隠しているものが透けて見える。零が「別に」と言うとき、その裏にある感情が読み取れる。鏡を見ているみたいだ。零の孤独は、詠の孤独と同じ形をしている。だから近い。だから安心する。だから、ときどき苦しくなる。同じだから、逃げられない。
ジョバンニのことを考えると、胸が「わからない」と震える。ポエムみたいな言葉の奥にある本当の気持ちが、いくら手を伸ばしても届かない。窓の外の星みたいだ。光っているのはわかる。でも触れられない。通り抜ける。それなのに目を逸らせない。わからないから怖い。わからないから目が離せない。
どちらも大切で、どちらも本当で、でも全然違う感情だった。
鞄の中でスマホが光った。莉子からだった。
『明日もカード作るね! 新しい柄の布買ってきた! 楽しみ!!!!』
あいかわらずびっくりマークが四つもある。莉子らしかった。詠は立ち止まって、数秒間画面を見つめて返事を打った。
『ありがとう。楽しみにしてる』
送信した。既読スルーしなかった。紫乃の声が頭の隅で響いた。「既読スルーは、平安では大変な無礼ですよ」。ちゃんと返せた。それだけのことが少し嬉しくて、口元が緩んだ。
空を見上げた。星は見えなかった。九月の夜空は薄い雲に覆われていて、月の輪郭すらぼやけている。でもジョバンニならきっと言う。「見えなくても、あるよ」って。あの一拍置いてから話す、静かな声で。
この感情に、まだ名前がつかない。
零への共鳴。ジョバンニへの切なさ。莉子の温かさ。アリアと紫乃を見て泣きそうになったこと。全部違う形をしていて、全部、胸のまんなかにある。名前がつかないまま、ぐるぐると回っている。
でも、いい。名前がつかなくてもいい。今はまだ。
今はただ、明日の図書室のことを考えよう。莉子が新しい布を持ってくる。掲示板にはまだ余白がある。展示の準備は終わっていない。ジョバンニはまだここにいる。
詠は歩き出した。金木犀の匂いが、どこまでも追いかけてきた。




