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第9話「文化祭準備と、それぞれの本音」 Part 2

 夜の図書室は、いつもと同じ匂いがした。古い紙と、埃と、かすかなインクの匂い。詠にとって、この世界で一番安心する匂い。でも、今夜は空気の底に、何か冷たいものが流れていた。


「見てよこれ!」


 詠がブックカバー型カードを広げると、アリアが飛びついてきた。


「すごい! 可愛い! これ詠が作ったの!?」

「違う、クラスの子が、莉子が作ってくれた」

「莉子って誰! 会いたい! お茶会に呼びたい!」

「呼べないから。書人のこと秘密だし」

「なんでー! じゃあ秘密のお茶会にすればいいじゃない! 秘密のお茶会! 響きが最高!」

「響きの問題じゃないから」


 アリアのいつもの「なんで」からの暴走。理由なんかない。ただ世界のすべてに「なんで?」と聞かずにいられない、不思議の国の子ども。詠はそれにいつの間にか慣れて、むしろ安心さえしていた。アリアが騒いでいる夜は、大丈夫な夜だ。

 零がカードを一枚手に取って、指先でめくった。布の手触りを確かめるように。


「……悪くない。字は相変わらずだけど」

「莉子が清書してくれたの」

「ふうん」


 零の「ふうん」には三種類ある。興味がないときの「ふうん」、考えているときの「ふうん」、そして感情を隠しているときの「ふうん」。零自身はたぶんどれも同じだと思っている。でも詠にはもう聞き分けられた。今のは三番目だ。何かを飲み込んだ「ふうん」だった。


 紫乃がカードを丁寧に受け取り、扇を口元に当てて微笑んだ。


「素敵ですね。手仕事には心が宿ります。千年前の写本も、一文字一文字に書き手の祈りがこもって」

「紫乃さん、千年前の話はあとで聞くね」

「あら。残念。とても良い話なのですが」

「また今度、じっくり」

「約束ですよ」


 紫乃は穏やかに笑った。この人の笑顔には、いつも「待っています」という響きがある。千年間待ち続けてきた人だけが持つ、気の長い優しさ。


 詠は書人たちの反応に安心しながら、ジョバンニを探した。窓際にいるはずだった。いつもの場所。星を見ている横顔が、夜の図書室で一番静かな風景だった。

 ジョバンニは、いた。いつもの窓辺に。でも。


「ジョバンニ、掲示板のこと報告したくて。日向がね、また友達連れてきてくれて」


 ジョバンニが振り返った。口が動いた。

 音がなかった。

 唇が言葉の形を作っているのがわかる。「よかったね」と言おうとしたのかもしれない。あるいは「ありがとう」だったかもしれない。でも声が聞こえない。空気を震わせるはずの振動が、どこにもない。音のない口がぱくぱくと動いている。水槽の中の金魚みたいに、ガラスの向こう側に閉じ込められているみたいに。

 詠は一瞬、自分の耳がおかしくなったのかと思った。


「ジョバンニ?」


 そのとき、ジョバンニの体が消えた。完全に。

 窓枠だけが残った。カーテンが風で揺れた。さっきまでそこにいた人が、影も残さず消えていた。黒いコートの裾も、ボサボサの髪も、暗がりで光る目も、全部。


「ジョバンニ!」


 詠の叫びが図書室に響いた。本棚が震えた気がした。アリアが振り返った。零の体がぴくりと動いた。紫乃の扇が止まった。


 一秒。二秒。三秒。激しい心臓の鼓動。世界が止まっていた。


 ジョバンニが戻った。

 輪郭がぼやけたまま、少しずつ色が戻る。水に落としたインクが逆再生されるように、ゆっくりと人の形に収束していく。最初に目が見えた。あの、暗がりで光る目。それから髪。コート。最後に指先。

 呼吸が荒かった。ジョバンニが肩を上下させて息をしている。書人が呼吸を乱すのを、詠は初めて見た。本から生まれた存在が、苦しそうに空気を吸っている。その事実が、詠の胸を掴んだ。


「……大丈夫」

「大丈夫じゃない! 今、消えてた! 完全に消えてた!」


 ジョバンニが自分の手を見た。透けている。五本の指の向こうに、窓の桟が見える。手のひらを返して、裏側も見た。どちらも向こう側が透けていた。


「……うん。ときどき、ある。最近」

「最近って、いつから」


 詠は書人たちの顔を見回した。答えを求めて。誰か、嘘だと言ってほしくて。

 零が目を逸らした。アリアが口を両手で押さえていた。紫乃が静かに目を閉じた。

 全員が知っていた。ジョバンニが「ときどき消える」ことを。この夜の図書室で、詠だけが知らなかった。


「なんで、なんで教えてくれなかったの」


 声が震えた。怒りなのか悲しみなのか、自分でもわからなかった。両方だった。


「……心配させたくなかった」

「心配するに決まってるでしょ!」


 ジョバンニが小さく笑った。半透明の体で、少年みたいに笑った。苦しそうなのに、笑った。


「……ごめん」


 その「ごめん」が、余計に胸を刺した。この人はいつもそうだ。自分が消えかけているのに、謝る。自分が一番つらいはずなのに、詠のことを先に考える。やめてほしかった。もっとわがままを言ってほしかった。消えたくないって叫んでほしかった。

 でもジョバンニはそういう人じゃない。原作のジョバンニも、カムパネルラがいなくなったとき、叫ばなかった。ただ座っていた。ただ、残された。


 詠はジョバンニの手を握ろうとした。指を伸ばして、重ねて、通り抜けた。何の手応えもなかった。皮膚が空気を掴んだだけだった。あの夜、本棚で指先が触れたときの温度が蘇った。「あ、温かい」と詠が言って「うん。君も」とジョバンニが答えた、あの温度。もうどこにもなかった。

 それでも詠は手を引かなかった。通り抜けたまま、そこに手を置いた。ジョバンニの手があるはずの場所に、自分の手を重ねた。触れていない。でも、ここにいるということだけは伝えたかった。


 しばらくして、詠が小さく言った。


「消えないで」


 ジョバンニは答えなかった。答えられなかったのかもしれない。ただ、透けた手を少しだけ動かした。詠の手に重ねるように。触れることはできなかった。でも、そこに手を置いた。

 窓の外で雲が月を隠した。図書室がほんの少しだけ暗くなった。月明かりすら消えた空間で、ジョバンニの半透明の体だけが、かすかに光っていた。


 そのあと、零はいつもより口数が少なかった。詠が展示の進捗を報告しても「ああ」「そう」しか返ってこない。本棚に本を戻す手つきが、いつもより乱暴だった。


「……零、怒ってる?」

「怒ってない」

「嘘。いつもより一言少ない」

「多いか少ないか数えてんの」

「……なんとなく、わかるようになった」


 零が一瞬だけ詠を見た。すぐに目を逸らした。


「掲示板、うまくいってんだろ。なんで浮かない顔してるの」

「……してない」

「してる」

「……ジョバンニが心配なだけ」


 零は何も言わなかった。「別に」も「知らない」も出てこなかった。ただ黙って本棚の整理を続けた。本を棚に押し込む手が、少しだけ荒かった。いつもは背表紙の位置を揃える零が、今夜は揃えなかった。

 背中が語っていた。今夜の零の沈黙は、いつもの沈黙と違う。でも詠にはそれに触れる余裕がなかった。

 ジョバンニが消えた数秒間が、まだ頭の中でリプレイされ続けていた。あの空白の時間が、予告編みたいに胸の中で点滅していた。

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