第9話「文化祭準備と、それぞれの本音」 Part 1
九月の風は、夏の残り香を引きずりながら、どこか急いでいる。
教室の窓から見える空が、八月とは違う色になった。入道雲の代わりに、薄くて速い雲が流れている。季節が変わるとき、空はいつも先に変わる。詠はそれを窓際の席から眺めて、ふと、夜の図書室の窓を思い出した。あの窓の外にある星は、季節が変わっても同じだろうか。
廊下の掲示板に貼り出された「三行レビュー掲示板」は、もう三枚目の模造紙に突入していた。
最初に書いたのは日向だった。『銀河鉄道の夜』について、こう書いてあった。
『友達がいないやつが友達を失う話。泣いた。二回読んだ。泣いた。三回目はまだ泣くのが怖くて読めない。』
三行じゃなくて五行だったけど、誰も突っ込まなかった。代わりに、その下にサッカー部の後輩が「先輩これ五行っす」と赤ペンで書き足していた。日向が「行数の問題じゃねえんだよ!」と叫んでいたのを、詠は図書室のカウンターから聞いて少しだけ笑った。
日向が友人を連れてきた。最初は「まあ日向が言うなら」くらいの軽い気持ちでレビューを書いていた子たちが、いつのまにか自分の言葉で本のことを語り始めていた。
帰宅部の女子が『星の王子さま』について書いた。
美術部の一年生が『モモ』について書いた。
名前も知らない三年生が走り書きで『こころ』について三行だけ残していった。
掲示板の前で足を止める人を見かけるたびに、詠の胸の奥がじんと温かくなった。これを始めたのは自分だけど、ここに書かれた言葉は自分のものじゃない。みんなの言葉だ。それが嬉しい。
文化祭展示「あなたの人生に刺さる一冊」の準備が本格化していた。感情で分類した棚を作る。「泣きたい夜に」「怒りが止まらないとき」「好きって何かわからないとき」。書人たちの文章は「夜の司書からの手紙」として匿名で展示する。
零の手紙は何度も書き直した跡があった。うっすら残る消しあとに、消しきれなかった本音が透けていた。
アリアのは「なんで?」が七回出てきた。七回目の「なんで?」だけ、少しだけ文字が小さかった。
紫乃のは一読しただけで背筋が伸びるような千年分の重みがあった。
ジョバンニのは三行しかなかったけれど、読んだあとに窓の外を見たくなるような静けさがあった。
企画は動いていた。でも、一つだけ足りないものがあった。
装飾だ。
詠はポップは書ける。キャッチコピーも考えられる。でも、展示ブースを「人が足を止めたくなる空間」にする美的センスが致命的になかった。自分で切った画用紙の飾りを壁に貼ってみたが、三秒で剥がした。ダサい。わかる。自分でもわかるからこそつらい。
放課後、図書室で模造紙を広げて腕を組んでいたとき、背後から声がした。
「……手伝おうか?」
振り返ると、莉子が立っていた。表情がいつもと違う。緊張しているのに、目がまっすぐこちらを見ている。逃げない目だった。
詠の手が止まった。
「……莉子」
「え、名前。初めて呼ばれた気がする」
「呼んでたでしょ」
「苗字だったよ、いつも」
そうだったかもしれない。四月から半年も隣にいたのに、詠はこの子の名前をちゃんと呼んだことがなかった。バレーのサーブを教えようとしてくれたときも。昼休みに誘ってくれたときも。ポップを褒めてくれたときも。いつも一歩引いて壁を作った。壁を作るのは得意だった。何度も転校していれば、嫌でもうまくなる。
「……私、莉子に冷たくしてた」
「知ってる」
莉子の声は怒ってなかった。でも軽くもなかった。ちゃんと重さのある声だった。
「ちょっと傷ついた」
まっすぐだった。逃げていなかった。詠は目を伏せた。
「体育のとき、バレーのサーブ教えようとしたら断られたでしょ。昼休みに誘ったときも。ポップのこと褒めたときも。全部、壁があった。わかってたよ。でも理由がわからなかったから、余計にしんどかった」
「……ごめん」
謝るしかなかった。どうせ転校するから、なんて言い訳は、今の莉子の目の前ではなんの意味も持たなかった。
「でも」
莉子が一歩近づいた。靴のつま先が詠の視界に入った。
「柊木さんがこんなに頑張ってるの見てたら、手伝いたくなった。ダメ?」
ダメなわけがなかった。
「……ダメじゃない。ありがとう」
莉子がふっと笑った。肩の力が抜けたような笑い方だった。鞄からポーチを取り出す。中にはマスキングテープ、色画用紙、レースリボン、布用ボンド、スタンプ。手芸部の道具じゃない。明らかにこの日のために準備してきている。
「莉子、それ全部持ってきたの」
「うん。展示の話聞いたときから、ずっと考えてた。ブックカバー型のカードにして、開くと三行レビューが読めるようにしたら可愛くない?」
莉子が試作品を取り出した。布貼りの小さなカード。表紙を開くと手書きのレビューが読める仕掛けで、背表紙まで丁寧に作ってある。角が丸く処理されていて、手に取ったときの感触まで考えられている。
「莉子、これプロでは」
「推し活で鍛えた」
「推し活って、ここまで鍛えられるの」
「好きなものに全力出すのは得意なの。睡眠時間は犠牲にしてるけど」
二人で並んで作業を始めた。莉子がカードの型を切り、詠がレビューを書き写す。はさみの音と、ペンが紙を走る音だけが図書室に響く。手を動かしていると、不思議なくらい言葉が自然に出てきた。
「私も転校したとき、最初の学校の友達全部なくしたって思った」
と莉子が言った。画用紙を丁寧に折りながら窓の外を見る。
「でも、なくしたんじゃなくて、新しい場所でまた作るんだって思えるまでに一年かかった」
「……一年か。私、三か月くらいで諦めてた」
「早い」
「早いよね」
二人で少し笑った。不思議だった。四月からずっと隣にいたのに、初めてまともに話している。でも緊張はなかった。久しぶりに会った友達みたいに自然だった。もしかしたら莉子は、ずっとこの距離にいてくれたのかもしれない。詠が壁を作っている間も。壁の向こうからずっと。
「ねえ、詠」
「ん?」
「……実は……」
そこまで言って、莉子が自分の口を両手で押さえた。目がまんまるに見開かれている。
「なんでもない!」
「え、何。気になるんだけど」
「なんでもないの! 今のなし! 完全に忘れて!」
莉子は耳まで真っ赤だった。指先までぽかぽかしているのが傍目にもわかる。詠は首を傾げたけれど、それ以上は聞かなかった。
(何だったんだろう。まあ、いいか。莉子が話したくなったら話してくれるだろう。)
カードは全部で二十枚できた。どれも本物のブックカバーみたいだった。明日の分の材料も、莉子が鞄に入れてきていた。
「莉子、ありがとう。これ、すごくいい」
「……へへ。また明日も来るね」
莉子が小走りで帰っていく背中を見送った。軽い足取りだった。来たときとは全然違う。ドアの向こうで小さくガッツポーズしたのが、すりガラス越しにぼんやり見えた。詠は少しだけ笑った。
一人きりの図書室に残った。窓の外が暮れていく。オレンジ色の夕焼けが紫に滲んでいく、昼と夜の境目の時間。莉子が作ってくれたカードを一枚、手に取った。開くとまだ白紙のままだ。ここに誰かの言葉が入る。誰かの「好き」が入る。
それだけで、胸が温かかった。
整理ボランティアの時間が近づいていた。空が暗くなるにつれて、本棚の影が濃くなっていく。もうすぐ、夜が始まる。




