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第8話「どん底の図書室と、零が動いた夜」 Part 3

 翌朝、職員室で烏丸先生に企画書を見せた。

 先生は大きめのカーディガンのポケットに手を突っ込んで——たぶん中の文庫本を触る癖だ——それからノートを受け取り、最初のページから丁寧に読んでくれた。読むのが遅い先生ではないのに、やけに時間をかけている気がした。


「素敵ね、詠ちゃん」


 先生が顔を上げた。いつもの穏やかな笑顔。


「展示のコンセプトも、その後の継続計画もしっかりしてる。感情で棚を分けるっていう発想、面白いわ」

「ありがとうございます」

「でも」

「でも?」

「生徒会の展示枠申請、締め切り明後日だね」


 先生はにこにこしたまま現実を突きつけてきた。悪気はないのだ。この人にはいつも悪気がない。ただ事実を述べているだけ。それが一番きつい。


「……はい」

「今日、放課後に持っていける?」

「持っていきます」

「じゃあ、一緒にやりましょう」


 先生がそう言って微笑んだとき、胸の奥で何かが静かにほどけた。一人じゃない。もう一人で転んで一人で泣く必要はないのだ。前回、廊下で少し泣いたときとは違う。あのときは誰かに相談するという選択肢すら頭になかった。


 先生とのやり取りを書人たちに報告した。零は壁にもたれたまま黙って聞いていた。そして詠が話し終わってから、こちらを見ないまま呟いた。


「……こういう言葉が話せるんだから、書けるんじゃないか。もとから」

「え?」

「昨日、お前が喋ったこと。俺はほとんどそのまま書き取っただけだ。構成を整えて、語尾を直して、見出しをつけた。それだけ。中身は全部お前の言葉だよ。言葉を持ってたのはお前だ。出し方を知らなかっただけで」


 零はそれだけ言って、いつもの定位置に戻っていった。

 その背中を見つめた。くたびれた白シャツ。かすれた声。体調だって万全じゃないはずなのに、昨夜、詠のために一番最初に立ち上がってくれた人の背中。


「……零」

「何」

「書けるようになったら、次は自分で書く」

「……好きにしろ」


 唇の端がほんの少しだけ上がった。いつもの、笑っているのか嘲っているのかわからないやつ。でも今日は笑っている方だと、わかった。


 翌日の放課後。生徒会室の扉をノックする。三度目だった。

 一度目は勢いだけで飛び込んで、データも持たずに撃沈した。二度目は利用者データを揃えて臨んだのに、「一回で終わるなら意味がない」と別の角度から切り返された。そして三度目の今日。あの二回分の全部を踏まえた企画書がある。


「失礼します」


 桧山楓は生徒会室の長机で手帳を開いていた。詠の姿を認めて、ペンを置く。表情は変わらない。ショートカットの髪が窓からの西日を受けて、輪郭だけ光っている。


「柊木さん。また来ましたね」

「企画書を持ってきました。読んでいただけますか」


 ノートを差し出す。桧山さんはそれを受け取って、表紙から読み始めた。「あなたの人生に刺さる一冊」アリアが主張したキャッチコピーが、表紙の中央にある。

 ページをめくる音だけが生徒会室に響いた。秒針の音。空調の音。そしてページをめくる、乾いた音。

 二ページ目で桧山さんの眉がわずかに動いた。三ページ目で指が止まった。四ページ目の施策一覧を、もう一度最初から読み直しているのが見えた。


「……今度は展示後の計画もありますね。三行レビュー掲示板の常設化。月替わり特集コーナーの継続運用」

「はい。文化祭の展示はスタート地点です。そこから図書室に来る人を増やす仕組みを作ります」

「集客の見込みは」

「夏休み前に比べて来室者数は落ちています。ですが三行レビューの投稿数は維持されていて、掲示板を見ている生徒は一定数います。文化祭をきっかけに、今は投稿だけしている人たちを実際の来室につなげる導線を作ります。企画書の四ページ目に、その具体的な施策を」

「見ました」

 桧山さんが企画書を閉じた。詠を見た。その目に、初めて「驚き」に近い色が浮かんだのを見た。

「……考えたんですね」


 敵意はなかった。馬鹿にした響きもなかった。ただ、この人は本当に考えてきたのだな、という静かな確認。


「前回、一回で終わるなら意味がないって教えてもらったので」


 桧山さんの瞳が一瞬だけ揺らいだ。


「……教えた、というほどのことは言っていませんが」

「私にとっては、教わったことでした」


 数秒間の沈黙。桧山は詠を見つめていた。品定めとは違う。何かを量っているようで、でもそれは決して悪意のある量り方ではなかった。


「展示枠、空きが一つあります」


 心臓が大きく跳ねた。


「ただし集客目標は達成してください。目標値はこちらで設定します。達成できなかった場合、次年度以降の図書室関連の企画の優先度は下がります。それでもいいですか」

「はい」


 即答した。考える余地なんてなかった。


「……わかりました。申請は受理します」


 桧山さんが手帳にペンを走らせた。几帳面な文字。一画一画に迷いがない。自分の判断に責任を持つ人の筆跡だった。

 立ち上がったとき手帳が机の端から滑り落ちた。

 その瞬間。桧山さんの右手が信じられない速度で動いた。手帳が床に着く前に、ぱし、と空中でキャッチ。小気味いい音が生徒会室に反響する。


「……運動神経いいですね」


 二度目の目撃だった。思わず口から出ていた。


「手帳が大事なだけです」


 桧山さんは何事もなかったように手帳を胸に押さえた。

 でも詠は見てしまった。手帳カバーの内ポケットから、文庫本の角がほんの一瞬だけ覗いたのを。表紙の色は児童書によくある、やわらかい暖色系。使い込まれて角が丸くなっている。何年も何年も、あの狭いポケットの中で大事にされてきた本。


 桧山さんはすぐに手帳を閉じた。何も言わなかった。詠も何も言わなかった。

 嘘だ。あの人が守ってるのは手帳じゃない。手帳の中に隠してある本だ。

 数字と効率で武装した人が、それでも手放せなかった一冊。合理性で固めた手帳の内ポケットに、子どものころから忍ばせている本。それがどういう気持ちか、詠にはわかる。好きなものを好きだと言えない痛みなら、よく知っている。


「柊木さん」

 退室しかけた詠を、桧山さんの声が引き止めた。

「目標は達成してください。言い訳は聞きません」

「はい」

「……期待しています、とは言いませんが」


 桧山さんはそこで言葉を切った。手帳を鞄にしまい、生徒会室の窓を閉めに行く。その横顔に表情はない。でも「言いませんが」の後に続くはずだった言葉が、閉じた窓ガラスの向こうの夕空に溶けていった気がした。


 廊下に出た。扉を閉めた。大きく息を吐いた。

 企画が通った。展示枠をもらえた。

 三日前は白紙だったノートが、今はぎっしり埋まっている。零の字で。アリアの赤ペンのダメ出しで。紫乃の助言のメモで。そしてジョバンニが隣にいてくれた時間で。触れられなくても、近くにいてくれた。あの半透明のぬくもりで。

 ポケットの中でスマホが振動した。メッセンジャーアプリ。クラスのグループ。


『文化祭の役割分担決めまーす! 希望ある人ー!』


 指が止まった。いつもならここでスルーする。既読だけつけて画面を閉じる。四月からずっとそうしてきた。メッセンジャーアプリの未読は詠の鎧だった。返事をしなければ傷つかない。関わらなければ、失うものもない。

 でも今日は違った。


『図書室の展示をやります。手伝ってくれる人がいたら嬉しいです』


 送信ボタンを押した。指が震えた。震えたけど押した。

 三秒。五秒。十秒。画面を見つめる時間が永遠みたいに長い。既読の数字だけが静かに増えていく。

 通知音。スタンプ。莉子からだった。


『手伝う!!!!』


 びっくりマークが四つ。画面からはみ出しそうなくらいの勢いで、文字が踊っていた。

 詠は夕焼けの残る廊下の真ん中で、少しだけ笑った。こんなに心強いびっくりマークを見たのは、たぶん生まれて初めてだった。

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