第8話「どん底の図書室と、零が動いた夜」 Part 2
零が立ち上がっていた。
壁にもたれていた姿勢を崩して、まっすぐ詠の前まで歩いてきた。三歩。たった三歩の距離なのに、その足音が妙にはっきり聞こえた。かすれた声のまま、でも言葉だけははっきりと。
「……貸せ」
「え」
「企画書。白紙でいいから貸せ」
ノートを差し出す詠の手がわずかに震えていた。零はそれを見ないふりをして、ノートをひったくるように受け取った。乱暴だった。でもノートの角を折らないように、端を丁寧に持っていた。そういう矛盾が、この人にはいつもある。
「……なんで」
「うるさい。早く喋れ。お前が思ってること全部言え。俺が書くから」
零がペンを構えた。胸ポケットから取り出した百円のボールペン。何の変哲もない安物だけど、零の細い指に収まると、不思議と様になる。作家の道具みたいに見えた。太宰治から生まれた人だから当たり前なのかもしれないけれど。
「書けないなら喋ればいいだろ。言葉にできないんじゃない、文字にできないだけだ。お前は喋れる。本の話になったら早口三倍速になるくせに、自覚ないのか」
「三倍速は日向の誇張だってば」
「誇張じゃなかったよ」
アリアが横から手を挙げた。紫乃が扇の陰で小さくうなずいた。窓際のジョバンニまで、かすかに首を縦に動かした気がする。
満場一致だった。詠の早口は全員公認らしい。
「……とにかく喋れ。図書室の展示で何がしたいのか。誰に何を届けたいのか。お前の中にあるもの、全部出せ。順番なんかどうでもいい。ぐちゃぐちゃでいいから出せ。整理は俺がやる」
零の目がまっすぐ詠を見ている。いつもは前髪の奥に隠れているはずの瞳が、今ははっきり見えた。唇の端がいつもみたいに少し上がっている。笑っているのか嘲っているのか読めない、あの表情。でも目だけは、ふざけていなかった。
深呼吸した。一度。もう一度。
「……図書室って、静かすぎるんだよ」
零のペンが動き始めた。
「静かで当然って思われてる。図書室は静かにする場所で、本は『読まなきゃいけないもの』って。でも違う。本って、もっと、もっと、うるさいものなんだよ」
言葉が溢れ始めた。白紙のノートの前では凍りついていた指が、声に置き換わった途端、勝手に動き出す。
「読んだら叫びたくなる。泣きたくなる。誰かに話したくなる。日向が『銀河鉄道の夜』を読んで目を真っ赤にして図書室に来たとき。あの顔だよ。あれが本を読むってことじゃん。あの顔がもっと見たいんだよ、私は」
零のペンがノートの上を走る。速い。詠が喋るのとほぼ同じ速度で、的確に要点だけを拾い上げていく。太宰治の書人の筆力。言葉を扱う力が、根本から違う。詠がぐちゃぐちゃに投げた言葉を、零が構造に変えていく。
「だから展示は、感情で棚を分けたい。『泣きたい夜に』とか、『怒りが止まらないとき』とか、『好きって何かわからないとき』とか。ジャンルで分類するんじゃなくて、気持ちで本を選べるようにする。『今の自分にはこの本が必要だ』って思える棚を作りたい」
「それと」
「展示だけじゃ一回きりで終わる。だから三行レビュー掲示板を常設にして、月替わりの特集コーナーも継続する。文化祭の展示はそのキックオフ。スタート地点であってゴールじゃない。一回のイベントで消費されるんじゃなくて、図書室に人が来続ける仕組みを作るの」
「桧山に前回言われたやつだな」
「……うん。一回で終わるなら予算を割く意味がないって」
「じゃあそれも入れる。『前回のご指摘を踏まえ改善しました』と企画書に明記しろ。相手の言葉をちゃんと聞いてましたと示すのは交渉の基本だ」
「……零、そういうの詳しいんだ」
「太宰治は人の機嫌を取る努力家だったからな。そうしないと生きていけなかった人間だ。俺にも多少はそのクセが残ってんだよ」
自嘲するように唇の端を歪めた。でもペンは止まらない。
「見せ方のダメ出しする!」
アリアが弾むように割り込んできた。さっきまで元気がなかったのが嘘みたいに、目をきらきらさせてノートを覗き込む。本の話になるとエンジンがかかるのは、詠だけじゃないらしい。
「まず表紙がダサい!」
「表紙まだ何も書いて」
「だからダサいの! 白紙が一番ダサいんだよ! 表紙はね、ぱっと見て『なにこれ面白そう』って思わせなきゃダメなの。退屈罪で有罪!」
「有罪って何の裁判」
「退屈は罪! お茶会に退屈な人を呼んだら帽子屋さんが怒るでしょ! 表紙に大きく書いて! 『あなたの人生に刺さる一冊』って! 人はね、『あなた』って言われると振り向くの!」
零が手を止めた。「……一理ある」と小さく呟いて、表紙のレイアウト案をノートの端に走り書きする。アリアの論理はいつだってめちゃくちゃだけれど、直感だけは恐ろしく鋭い。不思議の国の住人は、常識の外側から核心を突く。
「歴史的な価値については、私がお話しいたしましょう」
紫乃が扇をゆっくりと開いた。疲れた手つきだったけれど、声にはちゃんと品格が宿っていた。
「図書室という場所が人間の知識と物語を守り続けてきた歴史。それを一節でも添えれば、企画書に深みが生まれます。源氏物語が千年読み継がれてきたのは、誰かが書き写し、誰かが届け続けたから。あなたが今やろうとしていることは、その営みの一端です」
「紫乃さん……大げさだよ」
「大げさではありません。千年分の確信を持ってそう申し上げています」
目頭が熱くなった。眼鏡を直す。泣きそうなやつだ、これは。
ジョバンニは何も言わなかった。
でもいつのまにか詠の隣に来ていた。白紙だったノートが零の文字でどんどん埋まっていくのを、静かに見つめていた。
手が近かった。半透明の指先が、詠の手のすぐそばにある。触れてはいない。もう触れられないことを、お互いに知っている。本棚から落ちそうな本を一緒に支えたとき、確かに温度があった。「温かい」と言ったら「君も」と返してくれた。あの温度はもうない。指はすり抜ける。でも近くにいてくれた。それだけで充分だった。それだけで、このノートに意味がある気がした。
零がちらっと、ジョバンニの手と詠の手を見た。一瞬だけ。でも確かに見た。そしてペンを持つ指にぎゅっと力が入ったのが、ノートへの筆圧の変化でわかった。さっきまでの流暢な字が、少しだけ角張った。
零は何も言わなかった。視線をノートに戻して、前より少しだけ強い字で書き続けた。
「……零」
「何」
「……ありがとう」
「礼を言うな。気持ち悪い」
気持ち悪いって言った。ひどい。最低。でも。
耳が赤かった。
前髪で顔は隠れている。唇の端はいつも通り上がっている。でも耳の先だけが嘘をつけなくて、はっきりと赤く染まっていた。
詠はそれを見なかったふりをした。零がそうしてほしいだろうから。この人は、見られることが一番怖い人だから。
企画書は夜の八時半には完成していた。白紙だった三日間が嘘みたいに、ノートは八ページ分も埋まっていた。
アリアが「終わったー!」と伸びをした。紫乃が「お疲れ様でした」と微笑んだ。ジョバンニが窓際に戻って空を見上げた。
「……星が落ち着いてる」
「何が」と零。
「……企画書ができたから」
「星は企画書の心配しないだろ」
「……するよ」
いつものポエム翻訳が必要な会話。でも今日はなんとなく、意味がわかった気がした。星が安心しているんじゃなくて、ジョバンニが安心しているのだ。




