第8話「どん底の図書室と、零が動いた夜」 Part 1
九月。夏休みが明けた教室は、日焼けした顔と土産話で溢れていた。
「海行ったんだけどさー」
「海外旅行最高だった!」
「宿題終わんなくて死んだ」
休み明け特有の、少し浮ついた空気。詠はそのざわめきの中で、ノートに目を落としていた。白紙のノートに。
昼休み、廊下ですれ違った日向が「よう、夏バテか? 顔色悪いぞ」と声をかけてきた。「大丈夫」と返したけれど、大丈夫じゃなかった。顔色が悪いのは夏バテのせいじゃない。三日間、一文字も書けていないせいだ。
放課後の図書室は、まるで水槽の水が半分抜けたみたいに静まり返っていた。
カウンターの貸出簿をめくる。七月の夏休み前は一日あたり十二件あった貸出が、八月の後半に入ってからはたったの三件。ゼロの日さえあった。三行レビュー掲示板にはいくつか新しいカードが貼られていたけれど、足を止めて読んでいく人の姿は見かけなくなった。廊下を通り過ぎる生徒たちの視線は掲示板の上をすべるだけで、そのまま体育館や部室棟の方へ流れていく。
夏休みの間に、みんな図書室のことなんて忘れてしまったのだ。
整理ボランティアの時間。いつもより少し早く図書室に来た詠は、カウンター横の椅子に腰を下ろして手元のノートを開いた。文化祭の展示企画書になるはずのもの。ここ三日間ずっと同じページを見つめている。
白紙だった。
何も書けない。一文字も。
窓の外では部活の掛け声が聞こえる。グラウンドでサッカー部が走り、体育館からバレーボールの音が響く。みんな何かをしている。動いている。前に進んでいる。詠だけが止まっている。白いノートの前で、ペンを握ったまま固まっている。
構想はあった。「図書室を知ってもらう展示をやる。そこから通年の仕掛けにつなげる」。桧山さんに二回も跳ね返されたあの企画を、今度こそ形にする。頭の中ではちゃんと組み立てられていたはずなのに、ペンを握った途端、指が凍りついたみたいに動かなくなる。
一行目が書けない。一行目さえ書ければ、あとは走れるかもしれないのに。最初の一歩が、いつだって一番重い。
誰に向けて書けばいいんだろう。
桧山さんに? 生徒会のメンバーに? それとも、まだ一度も図書室に足を踏み入れたことのない誰かに?
(私の言葉なんて、誰にも届いたことがない。)
あの教室での自己紹介を思い出す。四月。「好きな本を紹介してください」と先生に言われて、『銀河鉄道の夜』と答えようとした。前の席の男子の「暗そうな本好きそう」という囁きが耳に刺さって、詠は「特にありません」と言った。本当は三十分でも語れたのに。購買のメロンパンが買えないくらいどうでもいいことなのに、あの瞬間だけはいまだに胸の奥がちくりと痛む。
好きなものを好きだと言えない人間が、どうやって「図書室に来てください」なんて企画書に書けるのか。
ペンを持つ指先が、夏休みの間も本を触り続けてかさついている。爪の横が少し切れていた。痛くはない。痛くはないけど、この手じゃ何も書けない気がした。
夕方六時を過ぎると、図書室の空気がふっと変わる。蛍光灯の光に混じって、本棚の隙間からかすかな別の光が漏れ始める。
最初に姿を現したのはアリアだった。いつもなら弾けるように本棚から飛び出してくるのに、今日はゆっくりと陰から身体を滑らせるようにして出てきた。左足の星柄の靴下が、心なしか色褪せて見える。右足のストライプ柄も、数日前より薄い気がした。
「……あれ、詠。今日早いね」
声にいつもの弾みがない。語尾が空気に溶けて消える。「お茶会しよ!」も「なんで?」もない。それだけで、どれだけ弱っているかがわかった。
次に紫乃が姿を現した。深紫の重ね着はいつも通り美しかったけれど、扇を持つ手が重そうだ。いつもは優雅に口元を隠す仕草が、今日はまるで扇にもたれかかっているように見える。
「詠さん、今日もお疲れ様です」
微笑んではいる。でも目元に疲労の影が落ちている。千年生きてきた人にも疲れた顔があるのだと、初めて知った。千年分の余裕が薄れると、こんな顔になるのか。
零はいつもの定位置にもたれていた。くたびれた白シャツの襟元がいつも以上にくたびれていて精彩がない。前髪の隙間から覗く目が、少しだけ焦点が合っていないように見えた。
「……よう」
声がかすれていた。ほんの少しだけど、確かにかすれていた。あの毒舌の切れ味を支えていた声が、紙やすりで擦ったみたいにざらついている。
そしてジョバンニは窓際にいた。いつもの場所。夜空に一番近い場所。黒いコートの裾が夕焼けの残光を受けて、向こう側の本棚をうっすらと透かしていた。
透けている。
泥のついたあのコートの端が、本棚の背表紙を透かしている。四月に初めて会ったときは、あのコートは確かにそこにあった。泥の質感も、布の重みもちゃんとあった。それが今は、夕焼けの光を通してしまう。
詠は唇を噛んだ。
みんな、弱っている。図書室に人が来なくなって、書人たちの体が少しずつ薄くなっていく。個々の貸出数だけの問題じゃない。図書室全体の活気が失われることで、全員が緩やかに衰弱する。紫乃が前に教えてくれた、あのルール。閑散期は全員が少しだるくなる。「少し」なんてものじゃなかった。目に見えて、みんなの輪郭がぼやけ始めていた。七月のあのお茶会の夜、自販機の紅茶を両手で包んで「温かい」と呟いたジョバンニの指が、今はどれだけ温度を保てているのだろう。
頭ではわかっていた。わかっていたのに、何もできていない。白紙のノートが、裁判官みたいに詠を見つめ返してくる。お前は何をしていたのだ、と。
「……ごめん」
声が出たのは自分でも驚きだった。
全員の視線が集まる。アリアが首を傾げ、紫乃が扇の動きを止め、零が壁から背中を離した。ジョバンニだけが窓の外を見たまま、でも耳はこちらに向いているのがわかった。
「ごめん、できない」
膝の上のノートを指で叩いた。白紙のページが蛍光灯の明かりを跳ね返す。
「企画書、書こうとしてるんだけど、三日間ずっとこのまま。言葉が出てこない」
自分の声が情けないくらい小さくて、でもそれが今の本当の声だった。
「誰かに届けようとする言葉なんて、私には書けないんだよ。ポップなら書ける。本の紹介なら書ける。でもこれは違う。『図書室に来てください』って私が? 転校するたびに『どうせすぐいなくなるから』って、人と関わることから逃げてきた私が、誰かに『ここに来て』なんて言う資格」
声が詰まった。言葉が喉の奥に溜まって、出口を塞いでいる。
アリアが何か言いかけてやめた。紫乃が扇を閉じた。パチン、と小さな音がした。沈黙の作法で、紫乃は詠の言葉を待ってくれていた。
眼鏡を直した。泣きそうなときの癖。もう自分でもわかっている。わかっているのにやめられない。
ジョバンニが初めて窓から目を離して、こちらを見た。暗い中でも光る目が、静かに詠を映していた。何も言わなかった。でもその視線だけで、聞いてるよと言われた気がした。
図書室が静まり返った。本棚の間をかすかな風が通り抜ける。夏の終わりの少しだけ涼しくなった風。どこかで蝉の声がした。夏の最後の一匹がまだ鳴いていた。
その沈黙を破ったのは、椅子の脚が床を擦る音だった。




