第7話「夏休み、わたしは本の話ができる人間になった」 Part 3
夜。整理ボランティアの時間。
図書室のドアを開けると、もう全員がいた。
アリアがカウンターの上に座って足をぶらぶらさせている。左右色違いの靴下。夏だから明るい色を選んだのだろうか。いや、たぶん何も考えていない。それがアリアだ。
紫乃が窓際で扇を手に夜風を受けている。白い指先が扇の縁をなぞるように動いていた。
零はいつもの壁際で、文庫本を片手に何か書き物をしていた。ペン先が紙をかすかに引っかく音が、静かな図書室に心地よく響いている。
そしてジョバンニは、窓の外を見ていた。いつもの場所。いつもの横顔。でも最近、その輪郭が少しぼやけて見える瞬間がある。それを考えないようにしていた。考えると息ができなくなるから。
「遅い」と零が言った。顔は上げない。「十分の遅刻」
「十分は遅刻じゃなくて誤差です」
「五分が誤差。十分は怠慢」
「零さんの基準厳しくないですか」
「甘いよ。本来なら一分でアウトだ」
アリアが「一分!? それ裁判案件!」と叫んだ。「遅刻は有罪! 量刑は紅茶三杯の刑!」。紫乃が「落ち着きなさい」と扇でそっとアリアの頭を撫でた。アリアがにへっと笑って、紫乃の方に身体を寄せた。
いつもの夜だった。このやり取りがあるだけで、肩の力が抜ける。昼の学校にいるときとは違う自分がここにいる。ここでは早口になっても、変なことを言っても、誰も引かない。おかしなことを言えばアリアが笑い、的外れなことを言えば零がツッコミ、うまく言葉にできなければ紫乃が待ってくれる。そしてジョバンニは、いつも静かにそばにいる。
今日は、伝えたいことがある。
詠はジョバンニの近くに歩いていった。窓辺に並んで立つと、夜の校庭が見えた。街灯が一本だけ光っていて、その先は暗い。空を見上げると、今夜は星が出ていた。夏の星座だ。ジョバンニならきっと、全部名前を知っている。
「ジョバンニ。今日、あなたの本を借りてくれた人がいたよ」
ジョバンニの横顔が、かすかに動いた。
「……誰が?」
「隣のクラスの男の子。日向っていう。サッカー部で、声が大きくて、メロンパンくれる人」
説明が下手すぎる自覚はあった。でもジョバンニは気にしていなかった。
「日向という人、どんな人?」
「……普通の男子。あんまり本を読まない人。でも」
昨日の日向の目を思い出した。赤くなった目。本を置く丁寧な手つき。「あいつ」とカムパネルラを呼んだ声。胸のあたりが「ぎゅってなった」と言った、あの不器用な正直さ。
「でも、ちゃんと本を読んだ人」
ジョバンニが「そっか」と言った。その声が少しだけ明るかった。暗い中で光る目が、いつもより柔らかく見えた。
「ありがとう」
微笑んだ。星を見ているときと同じ、少年みたいな顔だった。
気のせいかもしれない。でも。
ジョバンニの体が少しだけ濃くなった気がした。輪郭が、さっきよりはっきりしている。先週、手が通り抜けたときの恐怖がまだ体に残っている。あの冷たさ。触れたはずの場所に何もなかった空虚さ。でも今は、少しだけ「ある」感じがした。たった一人の貸出で何が変わるんだと言われたら、何も反論できない。でもそう見えた。そう見えたことが嬉しくて、詠は目を逸らせなかった。
「日向くんにね、カムパネルラのこと聞かれたの」
「……なにを」
「カムパネルラは最初から死んでたんだよな、って。あの旅全体がお別れだったんだ、って」
ジョバンニの表情が変わった。笑顔が消えた。悲しいとも違う、懐かしいとも違う。もっと深い場所にある感情が、水面に浮かんでは沈むような名前のつかない表情だった。
「ジョバンニ。カムパネルラのこと……知ってた?」
長い沈黙があった。窓の外で風が鳴った。カーテンがふわりと膨らんで、夜の匂いが流れ込んできた。夏の夜の、草と土と少しだけ水の匂い。
「……知ってたよ」
ジョバンニは静かに言った。
「ずっと、知ってた」
声に力がなかった。でも震えてもいなかった。とっくに受け入れた人の声だった。何年も前から、いや、生まれたときから知っていたことを、今あらためて口にしただけ、というような。
詠はそれ以上聞けなかった。何かが喉の奥で詰まって、言葉にならなかった。
カムパネルラが最初から死んでいたのなら。銀河鉄道の旅がお別れだったのなら。それを「ずっと知っていた」ジョバンニは、どんな気持ちであの列車に乗っていたのだろう。窓の外に広がる銀河を見ながら、隣に座る友人がもういないことを知りながら、それでも一緒に旅を続けた。
消えかけているジョバンニが「消えること」を最初から知っている存在だとしたら。
詠の目の奥がじんと熱くなった。眼鏡を直した。泣きそうなやつだ、と自分でわかっていた。
「……ごめん。聞いちゃいけなかったかも」
「ううん。聞いてくれてよかった」
ジョバンニが詠を見た。目が暗い図書室の中で光っていた。いつも通り、星みたいに。
「誰かが僕の話を読んでくれて、泣いてくれたんでしょ。日向という人が」
「……うん」
「それだけで、十分だよ」
零がカウンターの向こうで、書き物をする手を止めていた。聞こえていたのだ。でも何も言わなかった。ペンを指の間で回して、また書き始めた。いつもより少しだけ筆圧が強かった。ペン先が紙に食い込む小さな音が、詠の耳に届いた。
アリアが紫乃の膝に頭を乗せて、うとうとしていた。紫乃が扇でそっと風を送りながら、ジョバンニと詠の会話を遠くから見守っている。その目が穏やかで、でもどこか寂しそうだった。千年分の別れを知っている人の目だった。
帰り支度をしながら、詠はふと思った。
今朝、日向が帰り際に頭をぽんと叩いたこと。「詠」と名前を呼ばれたこと。あの瞬間のくすぐったさと、今ジョバンニの隣にいるこの静けさは全然違うものだった。
日向といるときは夏の日差しの中にいるみたいだ。まぶしくて、暑くて、汗をかいて、でも気持ちがいい。
ジョバンニといるときは夜空を見上げているみたいだ。静かで、遠くて、手が届かなくて、でも目を逸らせない。
どちらが好きとかじゃない。どちらも本当のことで、どちらにも名前がつかない。
「またね」と詠は言った。
「……またね」とジョバンニが返した。
一拍置いてから「……詠」と名前を呼んだ。
心臓が跳ねた。何回聞いてもこの一拍に慣れない。
「日向という人に、ありがとうと伝えて」
「……うん」
図書室を出ると、廊下はもう暗かった。自分の足音だけが響く。階段を下りて昇降口を抜けると、夜の空気が押し寄せてきた。昼間の暑さとは違う。少しだけ涼しくて、虫の声が遠くから聞こえる。
空を見上げた。星が出ている。
見えなくても、あるんだ。
以前ジョバンニが言った言葉を思い出した。そうだ。曇っていても星はある。読まれていなくても本はある。声が届かなくても言葉はある。そう信じることが、この夏の自分にできる精一杯のことだった。
帰り道、SNSの読書アカウントを開いた。
投稿する。
『夏。本を薦めた人が泣いてくれた。私も泣きそうだった。本はすごい。人の涙の形を変える。』
三十秒後に、いいねがひとつついた。
いつもの人だ。いつも一番最初に押してくれる人。
今はまだ夏の途中で、物語も途中で、詠の感情にもまだ名前がついていない。零のことを考えるときの「わかる」という震えにも。ジョバンニのことを考えるときの「わからない」という痛みにも。日向の頭ぽんに感じたくすぐったさにも。全部、名前がない。
でもメロンパンは甘かったし、本は誰かを泣かせたし、星は今夜も光っている。
それで十分だと、今の詠には思えた。




