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第7話「夏休み、わたしは本の話ができる人間になった」 Part 2

 翌日。朝から図書室で特集コーナーのポップを書き足していた。次は紀行文のコーナーに一枚。『読むだけで歩いた気になれる。靴いらず。』。零が見たら「雑すぎる」と言いそうだ。でも日向みたいな人には、こういう軽いノリの方が手に取りやすいかもしれない。


 そう思ったとき、廊下をばたばた走る足音が近づいてきた。

 ドアが勢いよく開く。日向が立っていた。昨日と同じサッカー部のジャージ。でも今日は何かが違った。目が赤い。


「読んだ」


 日向は開口一番そう言った。手に昨日貸した文庫本を握っている。表紙にほんの少しだけ汗の跡がついていた。一晩で読んだのだと、すぐにわかった。帰ってから寝る前に、あるいは布団の中で携帯のライトをつけて。ページをめくる手を止められなかったのだろうと思った。


「なんか泣きそうになった」

「泣きそうじゃなくて泣いてない?」

「泣いてない!」


 日向が強く否定した。でも目の縁がまだ赤い。鼻声も少し残っている。嘘が下手な人だ、と詠は思った。この人はたぶん、人生で嘘をついた回数が両手で足りるくらいだろう。


「……ちょっとだけ。ジョバンニって友達がいないのに友達を失う話じゃないか。いや、なんていうか、友達って呼んでいいかもわかんない相手っていうか。クラスで一番キラキラしてるやつで、自分とは全然違う世界の人間で。でも大事なやつで。そいつと一緒に旅して、でも」


 日向が言葉を探すように天井を見上げた。蛍光灯の光が目に当たって、少し眩しそうに眉をひそめた。


「でもカムパネルラって死んでたんだよな、最初から」


 詠の手が止まった。持っていたペンを、ぽとりと落とした。

 メロンパンを渡してくるような男の子の口から、その言葉が出るとは思っていなかった。教室で一番声が大きくて、誰とでも笑い合えるこの人が、あの物語の核心を正確に掴んでいる。


「あの旅全体が、お別れだったんだ。銀河鉄道に乗って、きれいな景色見て、いろんな人と会って。でもそれ全部お別れの時間で。カムパネルラはそれを知ってて、でもジョバンニには言わなくて。それ読んでわかったときやばかった。マジで。なんか胸のあたりがぎゅってなって、それがずっと取れなくて。朝起きてもまだぎゅってしてた」


 日向がカウンターに本を置いた。置き方が丁寧だった。雑に放り出さなかった。本が傷まないように、そっと。昨日渡したときと同じ丁寧さで、今度は返してくれた。


「俺さ、映画で泣くことはあるけど、本で泣いたの初めてかも。なんか映画とは違うんだよな。映画は目の前で全部見せてくれるけど、本は自分で想像するじゃん。自分の頭の中にしかない映像っていうか。だから自分で想像した分だけ、なんか、刺さるっていうか」


 詠の心臓が熱くなっていた。

 この人ちゃんと読める人だ。ちゃんと自分の言葉で本の話ができる人だ。語彙は「やばい」と「マジで」と「ぎゅってなる」くらいしかないのかもしれない。でもその間にちゃんと感情がある。日向の感想は評論家の文章とは全然違うけれど、本に触れた手ざわりがそのまま伝わってくる。加工されていない、生のままの感想だ。それが嘘みたいにまっすぐで、胸に刺さった。


「お前また泣く本薦めただろ」

「泣く本だとは言ってない」

「いや泣くじゃんあれ! 聞いてないぞそういうの!」

「感想文書けそう?」

「書ける。めちゃくちゃ書ける。ていうか書きたい。なんかこう、カムパネルラのことを誰かに言いたい。あいつのことをさ。あいつがどんなやつだったか。どんな顔で笑って、どんなふうに消えたか。それを知らない人に教えたい」


 「あいつ」と日向は言った。

 まるで友達の話をするみたいに。架空の人物をそう呼べる人は、詠の知る限り少ない。本の中の人物を「あいつ」と呼ぶ。それは本が好きな人の特権だと思っていた。でも違った。本を一冊だけ読んだ人にだって、その権利がある。読んで、泣いて、朝になってもまだ胸がぎゅっとしていた人には。


 日向はスポーツドリンクを買って、昨日と同じ椅子に座った。「もうちょっと涼んでから部活行く」と言いながら、感想文の構成をぶつぶつ練り始めた。ペットボトルを片手に、もう片方の手で空中に何かを書くような仕草をしている。


「最初にあらすじ書いて、次にカムパネルラの話して、最後に……最後何書けばいいかわかんねえ」

「最後は、読んで自分がどう変わったかを書けばいいんじゃない」

「変わった?」

「本を読む前と読んだ後で、何か違うことがあるでしょ。見え方が変わったこととか、考え方が変わったこととか」


 日向がしばらく黙った。スポーツドリンクのペットボトルを両手で回しながら、真剣な顔で考えている。普段のへらへらした表情とは全然違う。眉間に力が入って、唇が少し尖っている。こういう顔もするんだ、と詠は思った。ボールを追いかけているときも、こんな真剣な顔をしているのだろうか。


「……友達を大事にしようと思った。ベタだけど」

「ベタなのがいいんだよ、感想文は」

「お前、先生みたいだな」

「先生じゃないし」

「でもなんか安心する。お前と話すと本のことがわかる気がする。いや、わかんないんだけど、わかんないなりに話していいんだなって思えるっていうか。変なこと言っても笑わないし、っていうかちゃんと聞いてくれるし」


 詠は眼鏡を直した。指先が少し震えていたことに、日向は気づかなかっただろう。

 「話していいんだ」って思える。

 それは詠自身がずっと欲しかった言葉だった。本の話をしていいと思える場所。早口になっても引かれない場所。四月の教室で「特にありません」と答えた自分が、今、夏の図書室で本の話をしている。


(相手は、昨日まで一冊も本を読んでいなかった男の子だ。そしてその人が「話していいんだなって思える」と言ってくれている。私が誰かにとって、そういう存在になれていたなんて。)


「じゃ、行ってくるわ」


 日向が立ち上がった。帰り際にふと振り返る。


「お前、名前なんだっけ」

「……知ってるくせに」

「ちゃんと聞いたことなかったから」

「柊木詠」

「詠。詩みたいな名前だな」


 ぽん、と詠の頭を軽く叩いた。力加減が絶妙に優しくて、髪が少しだけ揺れた。手のひらが大きかった。日差しみたいに温かかった。


「読書感想文、またわからなかったら来るわ」


 足音が遠ざかる。詠は前髪を指で直しながら、自分が今どんな顔をしているのかわからなかった。たぶん、変な顔をしている。変な顔をしている自覚だけはあった。頬が熱い。冷房が効いているのに、頬だけが熱い。


「……来ればいいじゃん」


 声は、たぶん廊下の向こうには届かなかった。でも言えた。先に手を伸ばすことができた。以前の自分なら「別に」と言って目を逸らしていた。「来なくていい」と言って自分を守っていた。でも今日は違った。「来ればいい」と言えた。たったそれだけのことが、こんなにも心臓を騒がせるなんて思わなかった。


 図書室の貸出記録を開いた。『銀河鉄道の夜』の欄に、倉橋日向の名前がある。三年間ゼロだった貸出数に、一の数字が灯っていた。たった一。でもゼロと一の間には、無限の距離がある。ゼロは沈黙だ。一は声だ。誰かがこの本を手に取って、開いて、最後のページまで読んだ。それだけで本は生き返る。

 詠は記録帳をそっと閉じた。夜になったら、このことを伝えよう。

 あなたの本を読んでくれた人がいるよ、と。

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