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第7話「夏休み、わたしは本の話ができる人間になった」 Part 1

 夏休みが始まって五日目。朝八時の校舎は、蝉の声以外に何も聞こえなかった。

 廊下を歩くたびにスニーカーがきゅっと鳴る。空調の効いていない通路は蒸し暑くて、首筋に汗が伝った。それでも足は図書室に向かっていた。

 授業がない日にわざわざ学校に来るなんて、去年までの自分なら考えられなかった。転校を繰り返すたびに「どうせすぐいなくなる」と言い聞かせていた自分が、毎朝同じ場所を目指して歩いている。その事実がまだ少しだけ、自分自身を驚かせている。


 図書室のドアを開けると、ひんやりした空気が頬を撫でた。窓際のカーテンが揺れて、朝の光が本棚の背表紙を白く照らしている。誰もいない図書室は静かで、ページをめくる音すら聞こえない。それなのに寂しくなかった。本がある。それだけで、この場所には気配がある。何百人分もの気配が、背表紙の奥に眠っている。


 特集コーナーの整備。それが夏休みの間に詠が自分に課した仕事だった。文化祭に向けて図書室を盛り上げるための下準備でもある。

 桧山さんに「利用者が少ない」と突きつけられた数字が、まだ胸の奥に刺さっていた。数字で証明しなきゃいけない。でもそれだけじゃなくて、ただ純粋に、もっとたくさんの人にこの場所を知ってほしかった。烏丸先生が事前に許可を出してくれていた。


「夏休み中も整理ボランティアの枠で使っていいよ。冷房もつけておくから」と笑って。


 冷房は正直ありがたい。家にいると母が設定温度を二十八度から死んでも動かさないので、汗だくで本を読む羽目になる。「省エネ」と書かれた付箋がリモコンに貼ってあるのだ。「ちょっとくらい下げていい?」と聞いたら「ダメ」とだけ返ってきた。母なりの信念らしい。


 本棚の前にしゃがみ込んで、ジャンル分けされた文庫本を一冊ずつ手に取った。

 背表紙が日焼けしているもの。カバーの角が丸くなっているもの。ページの端にかすかな折り目があるもの。それぞれの傷に、誰かが読んだ痕跡がある。

 どんな姿勢で読んだのだろう。電車の中で片手で開いたのか。布団に寝転がって蛍光灯の下で読んだのか。テスト前に逃避として読んだのか。そう想像するだけで、ただの整理作業が少しだけ特別なものに変わった。


 特集コーナーのテーマは「夏に読みたい、旅の本」にした。冒険もの、紀行文、ロードムービーみたいな小説。棚の一段目に並べて、手書きのポップを添える。零が前に書いてくれた「ハードルを下げる言葉」を思い出しながら、自分なりに工夫した。


『この本、最初の三ページで海が見えます。』


 我ながら悪くないと思った。ポップを棚に立てかけて、少し離れた場所から眺める。角度を変えてもう一度。目線の高さにちょうど入る。通りすがりに目が合う位置だ。うん、これでいい。


「お前、夏休みも図書室かよ」


 声がして振り返ると、廊下の向こうから倉橋日向が歩いてきた。サッカー部のジャージ姿で、タオルを首にかけている。額に汗が光っていて、日焼けした腕が夏の色をしていた。よく見ると膝にも泥がついている。


「日向こそ部活?」

「サッカー。あっついんだよな。グラウンド直射日光で死にそう。日陰が校舎の影しかなくて、休憩のたびに全員が壁に張りつくの」

「壁に」

「ヤモリみたいに」


 想像して少し笑ってしまった。日向はそういう、どうでもいいことを面白く言える人だった。


「図書室、涼しいよ」

「入っていい?」

「公共の場所だから別に私の許可はいらないけど」

「言い方」


 日向がへらっと笑いながら図書室に入ってきた。冷房の風を全身で浴びて「生き返る……」と両腕を広げている。大型犬が水を見つけたときみたいだった。ジャージの背中が汗で少し変色していて、それがなんだか夏そのものだった。

 自販機に向かうのかと思ったら、日向はスポーツバッグの中をごそごそやって、何かを取り出した。


「はい」


 目の前に差し出されたのは、コンビニの袋に入ったメロンパンだった。


「え」

「部活前に買っといた。お前の分」

「……なんで」

「なんでって、いつも売り切れで悲しそうな顔してるから」


 心臓が一拍、変な跳ね方をした。

(この人、私の顔見てたの?)

 購買の前でメロンパンの棚が空っぽなのを見て肩を落としていた自分の姿を、日向は覚えていたのだ。

 それも一回や二回じゃない。「いつも」と言った。いつも見ていて、いつも覚えていて、それで今日メロンパンを買ってきた。

 その一連の流れがあまりに自然すぎて、詠は少し目眩がした。この人にとってはきっと大したことじゃない。でも詠にとっては、誰かが自分のために何かをしてくれるということ自体が、ものすごく珍しいことだった。


「……ありがとう」

「おう」


 それだけ言って、日向は自販機でスポーツドリンクを買い、カウンター横の椅子にどかっと座った。ドリンクを一気に半分飲んで、ぷはっと息を吐いた。


「実は読書感想文、何読めばいいかわかんなくて」

「……それが本題でしょ」

「バレた?」


 悪びれない笑顔。詠は口元が緩みそうになるのを、メロンパンの袋で隠した。


「どんな映画が好き?」

「異世界とか。バトルとか。あと宇宙系?インターステラーは三回観た」

「じゃあ『銀河鉄道の夜』。宇宙の旅の話。短いし」

「なんか古くない?表紙が渋いんだけど」


 日向がスマホで検索したらしく、画面をこちらに見せてきた。確かに渋い装丁の版が出ている。


「渋いから、感想文で他のやつと被らない」

「……そういう考え方するんだ、お前」

「普通じゃない?」

「普通じゃない」


 日向がさっきとは違う目で詠を見た。少し感心したような、面白いものを見つけたような顔。詠は立ち上がって文庫本の棚に向かった。指先が背表紙をなぞっていく。あ行、か行……見つけた。『銀河鉄道の夜』。薄い文庫本。図書室の蔵書印が押してある。


 手に取ると、ほんの少しだけ指が震えた。好きな本を人に薦めるのは、自分の内側を差し出すのに似ている。否定されたら傷つく。四月の教室で「暗そうな本好きそう」と言われたときの痛みが、まだ胸の奥に残っている。あの瞬間、体の中の何かがきゅっと閉じた感覚があった。閉じたまま「特にありません」と言った自分が、今この本を誰かに手渡そうとしている。

 でも、メロンパンをくれた人だ。購買の前で悲しそうな顔をしていた詠を覚えていてくれた人に、詠の好きな本を渡す。それはたぶん、交換みたいなものだ。気持ちと気持ちの。

 カウンターに本を置いて、貸出カードに日向の名前を書いた。倉橋日向。


「借ります」


と日向が言って本を受け取った。表紙を眺めて裏返して、あらすじを読んでもう一回表紙を見た。その一連の動作が思いのほか丁寧だったことに、詠は驚いた。本を粗雑に扱う人じゃないんだ、と思った。


「じゃ、部活行ってくる」


 日向がスポーツバッグを肩にかけ、片手を上げて出て行った。スニーカーの音が廊下に響いて、遠ざかって消えた。

 図書室に静けさが戻る。


 メロンパンの袋を開けて一口かじった。甘かった。購買のやつではないけけど、これはこれでおいしい。むしろ誰かが自分のために選んでくれたという事実が、砂糖よりも甘い味をしている気がした。

 二口目をかじったとき、ふと思った。日向は何味が好きなんだろう。今度聞いてみようか。いや、別に聞かなくてもいい。聞いたら何か始まりそうで、始まったら終わりが怖い。でも、聞いてみたいとは思った。

 窓の外で蝉が鳴いている。うるさいくらいに鳴いている。でもそれが夏の匂いだった。

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