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第6話「ジョバンニが、消えかけている」 Part 3

 帰り道、七月の夜風が生温かった。

 蝉はもう鳴いていなかったけれど、夜の空気は昼間の熱をまだ含んでいて、アスファルトからじわじわと体温みたいなものが立ちのぼっていた。

 詠は何度も自分の右手を見た。ジョバンニに触れようとして、何の抵抗もなく通り抜けた手。先週は確かに触れたのに。指先の温度を覚えているのに。

 信号待ちの間にスマホを開いた。読書アカウント。何か書こうとして、やめた。今日のことは書けない。「友達が消えそう」なんて、誰にもわからない。友達。ジョバンニは友達なのだろうか。友達とも違う気がする。でも他にちょうどいい言葉がない。


 鍵を開けて家に入ると、リビングの明かりがついていた。


「おかえり」


 母がテーブルでコーヒーを飲んでいた。テレビは消えていて、テーブルの上にノートパソコンが開いている。仕事の資料だ。


「ただいま」


 靴を脱いで鞄を下ろす。冷蔵庫を開けるとラップのかかったお皿。生姜焼き。横にメモ。「レンジ3分。ご飯は炊飯器」。母にしては丁寧な献立だった。


「今日はちゃんとしてるね」

「失礼ね。たまにはやるのよ」


 レンジに皿を入れてボタンを押す。ぶーんと低い音がする。詠はテーブルの椅子に座って、回転するお皿をぼんやり見つめていた。


「あんた最近、顔が変わったよ」


 母の声に顔を上げた。


「え?」

「悪い意味じゃない」母はコーヒーカップを両手で包んで、少しだけ笑った。「ちゃんと怒れる顔になった」


 心臓が跳ねた。ジョバンニに怒鳴ったことが顔に出ているのだろうか。


「……怒れる顔?」

「前はさ、怒らない子だったでしょ。何があっても『別にいい』って。転校のたびに友達と別れても泣かなかったし、新しい学校で嫌なことがあっても言わなかった。あんたはずっと、怒ることを自分に許さない子だった」


 レンジがチンと鳴った。詠は動けなかった。


「……あんたのお父さんも昔そうだったよ」

「お父さんが?」

「本が好きなくせに、本しか信用しなかった。人間と話すより本を読むほうが楽だって、堂々と言うような人でね。私と最初に会ったとき、目も合わせなかったんだから。飲み会の隅っこで一人で文庫本読んでるの。なんだこの人って思った」


 詠は母を見た。母は遠いところを見るような目をしていた。


「あの人が変わったのは、一冊の本だったんだよ」

「一冊の本?」

「不思議でしょ。あんなに本ばっかり読んでた人が、たった一冊で変わったの。正確に言えばね、本そのものが人を変えたんじゃないと思う。その本を私と分かち合えたことが、あの人を変えたんだと思う」

「……『銀河鉄道の夜』?」


 母が目を丸くした。それから笑いをこらえるみたいに口元を手で覆った。


「なんで知ってるの」

「……なんとなく」


 なんとなくじゃなかった。詠は鞄のポケットに手を入れた。指先に触れる、使い込まれた紙の感触。何百回と触れてきた手触りだ。取り出したのは、古い文庫本だった。

 カバーはとっくにどこかへ行ってしまっていて、表紙は日焼けして茶色くなっている。角は丸くなり、背表紙は何度も開いた跡でひび割れていた。でもページは一枚も破れていない。大切に扱われてきた本だった。

 表紙の内側に父の字があった。少し右に傾いた力強い筆跡。


 詠へ


 それだけ。ただ「詠へ」とだけ書かれていた。

 この本だけは、どこに転校しても手放さなかった。段ボールに最後に入れて、新しい部屋で最初に出す本。何度読んだかわからない。

 幼いころ、父がこの本を読み聞かせてくれた。夜、布団の中で。ベッドライトだけの薄暗い部屋で、父の低い声で聞く銀河鉄道の旅は、本当に夜空に乗り込んでいくみたいだった。楽しくて、きれいで、そして必ず途中で眠ってしまった。目が覚めるといつも朝で、父はもう仕事に行っていた。


「食べな。冷めるよ」


 母が立ち上がって、レンジからお皿を出してテーブルに置いてくれた。生姜焼きから湯気が立つ。醤油と生姜の匂いがふわりとした。


「……うん」

「あとね、詠」

「なに」

「その本、お父さんが最初にくれたのは、あんたが生まれた日だよ。まだ字も読めないのにね。名前の由来、知ってる?」

「よむ、でしょ。本を読む、の」

「それもあるけど、歌を詠む、の詠でもある。読むだけじゃなくて、自分の言葉で伝えられる子になってほしいって。あの人にしては、珍しくいいこと言ったの」


 母はまたコーヒーに目を落とした。


 自分の部屋に戻って、ベッドに座った。

 文庫本を開く。ジョバンニが銀河鉄道に乗り込む場面。窓の外に天の川が広がる場面。カムパネルラと並んで座る場面に挟まった付箋は色が褪せている。

 ジョバンニの言葉が蘇る。窓際で星を教えてくれたときの声。「……こと座のベガ。織姫星」。あの少年みたいな横顔。あの温度。

 今日、通り抜けた手。抵抗のなさ。空気みたいに、何もないみたいに、すり抜けた指先。

 地下室の淡い光。声も出せず、名前もなく、ただ在るだけの光。

 詠は文庫本をぎゅっと胸に抱きしめた。


 泣いてはいなかった。でも眼鏡を外した。世界が輪郭を失って、滲んだ。天井の豆電球がぼんやりと光っていた。こうして見ると星みたいだ。


「見えなくても、あるんだ」


 いつかジョバンニが言った言葉を、声に出してみた。


「……あるよ。ずっと」


 自分の声で繰り返したら、余計に胸が苦しくなった。

 どうすればいい。ポップを書いても誰も手に取らない。データを揃えたってあの本に手を伸ばす人は増えない。ジョバンニはどんどん薄くなっていく。時間がない。

 でも今夜、ひとつだけわかったことがある。


(私は怒れるようになった。)


 ジョバンニに怒鳴った。勝手に諦めるなって。あんなに大きな声を出したのはいつぶりだろう。転校を繰り返す間に、怒ることを忘れていた。怒ったって引っ越しは止められない。怒ったって友達はついてこない。だから怒らなくなった。「別にいい」で全部に蓋をした。

 でも今日、蓋が飛んだ。

 ジョバンニが消えるかもしれないと思ったら「別にいい」なんて一ミリも思えなかった。

 文庫本を枕元に置いた。父の字を指でなぞった。「詠へ」。


(お父さん。この本で変わったんでしょう。本しか信じられなかった人が、誰かと分かち合うことを選んだ。その最初の相手がお母さんで、そしてこの本を、生まれたばかりの私にくれた。読むだけじゃなくて、詠む子になれって。自分の言葉で伝えられる子になれって。だったら私も、何かを変えなきゃいけない。変えられるはずだ。)


 明日、図書室に行く。ジョバンニに会いに行く。

 何を言うかは、まだわからない。でも行く。それだけは、決めた。

 ベッドライトを消した。暗い部屋の中で目を閉じる。

 まぶたの裏に、ジョバンニの光る目と、通り抜けた手と、地下室の小さな光がぐるぐると回っていた。眠れない夜になりそうだった。でも不思議と、怖くはなかった。怒れる自分がいることが、少しだけ心強かった。

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