第6話「ジョバンニが、消えかけている」 Part 2
零がカウンターに腰掛けたまま、淡々と言った。
「『銀河鉄道の夜』。最後に貸し出されたのは三年前。直近一年の貸出回数、ゼロ」
数字を読み上げる零の声に感情はなかった。事実を事実として並べる。それが零のやり方だった。でも詠は気づいていた。零の目がジョバンニを見ないようにしていることに。いつもなら壁にもたれてこちらを見ているのに、今日は横を向いたまま、手元の文庫本のページも捲らずにいる。
「三年って……」
「教科書に載ってるから名前だけは知ってる。でも実際に手に取る人間は少ない。名前を知っていることと読むことの間には、かなり深い溝がある」
零の言葉は正しかった。正しいからこそ深く刺さった。
アリアがいつになく静かだった。いつもなら「お茶会!」と騒ぎだすのに、今日は膝を抱えて、ジョバンニをじっと見ていた。左右色違いの靴下はいつもより地味な組み合わせだ。アリアの元気は靴下に出ることを、詠はもう知っていた。紫乃は扇を閉じたまま、何も言わなかった。図書室の空気がひんやりと重くなった気がした。夏なのに。
翌日、詠はポップを書いた。
放課後の図書室で画用紙にペンを走らせた。何枚も下書きをして、色鉛筆の組み合わせを変えて、蛍光ペンで星の絵を添えた。どうすればこの本の魅力が伝わるか、ずっと考えた。ジョバンニとカムパネルラの旅。銀河を走る列車。窓の外に広がる天の川。
『この本を読んだら、夜空の見え方が変わります。夜の司書より』
カウンターの一番目立つ場所に置いた。自分では上出来だと思った。
一日経った。昼休みに図書室を覗くと、ポップの前を三人の生徒が通り過ぎた。誰も足を止めなかった。
二日。やっぱり誰も手に取らない。「あ、このポップかわいい」と言ってくれた一年生がいたけれど、その子が手に取ったのは隣の棚の恋愛小説だった。
三日目。ポップの角が少しめくれていたのを直しながら、詠は自分の無力さに唇を噛んだ。言葉が届かないのは慣れていたはずだった。SNSの書評だって二十三人にしか届いていない。でもこれは違う。届かないことの先に、誰かが消えるかもしれないのだ。
その日の整理ボランティアの時間。修復が必要な古い本を探すため、書庫の奥を整理していた。
書庫は図書室の裏手にある小さな部屋で、普段は施錠されている。烏丸先生から鍵を預かって、詠は週に一度、蔵書の状態を確認していた。ほこりっぽい空気の中で本棚の裏側を雑巾で拭いていると、壁と棚の隙間に古い扉があることに気づいた。
木製の扉は歪んでいて、長い間開けられた形跡がなかった。ペンキが剥がれて、取っ手には錆が浮いている。手をかけると、ぎぎ、と嫌な音がして、少しだけ開いた。ほこりとは違う、もっと古い、時間そのものが澱んだような空気が漏れてきた。
階段があった。下に続いている。
「……なにこれ」
スマホのライトを点けて、恐る恐る降りていった。壁に手をつくと冷たくて湿っていた。十段ほど降りると、小さな地下室に出た。
天井が低い。手を伸ばせば指先が届きそうだ。壁に沿って本棚がぐるりと並んでいて、何十年も動かされていないであろう本が詰まっていた。
背表紙の文字が読めないほど色褪せたもの、表紙がぼろぼろに崩れかけたもの。革装丁の洋書は金文字が完全に消えて、中身が何なのかすら判別できなかった。
その棚の隅に、かすかな光があった。
蛍のように淡い光。ぼんやりとした球体が、本と本の隙間で揺れていた。ひとつじゃない。二つ、三つ、数えると十ほどの光が、棚のあちこちで明滅していた。規則性のない瞬き。まるで呼吸のように、ゆっくりと強くなったり弱くなったりを繰り返している。
「……あれは?」
いつの間にか詠の後ろに立っていた紫乃が、静かに言った。
「消えた書人の残留思念です」
心臓が跳ねた。振り返って紫乃を見た。紫乃の表情は穏やかだったけれど、目の奥に深い静けさがあった。千年を生きた人の目だ。何度もこの光を見てきた目だ。
「まだ完全には消えていないのです。本が物理的に存在している限り、かすかな意識の欠片が残ることがあります。けれどそれは、生きているとは言えません。夢も見ず、声も出せず、名前を呼ばれても返事ができず、ただ在るだけ」
淡い光が揺れた。名前のない光。声のない光。かつて誰かだったもの。誰かの物語を生きていたもの。あの光の一つひとつに、アリアみたいに笑ったり、零みたいに皮肉を言ったり、紫乃みたいに誰かの頭を撫でた過去があったのだろうか。
詠の背筋を冷たいものが伝った。夏の夜なのに体の芯から凍えていた。
あれが、ジョバンニの未来だ。
借りられなくなって、薄くなって、声が出なくなって、最後にはあの小さな光になる。暗い地下室の隅で、誰にも気づかれないまま、ただ在るだけの存在に。
「紫乃さん」
「はい」
「……あの人たちは、怖かったのかな。消えるとき」
紫乃は少しの間黙って、それから扇を口元に当てた。
「怖かったと思いますよ。怖くないふりをしていた人も、いたかもしれませんけれど」
紫乃の声が少しだけ低くなったことに、詠は気づいた。この人も、千年間ずっとこの恐怖のそばにいたのだ。仲間が一人、また一人と光になっていくのを見送ってきた。
地下室から戻ると、ジョバンニが窓際にいた。いつもと同じ場所に、いつもと同じ姿勢で。けれど月明かりの中でその輪郭が前よりも薄いことが、もう詠の目には隠しようがなかった。さっき見てきた地下室の光が、まぶたの裏にちらついた。
「ジョバンニ」
「……なに」
「消えたくないって、思わないの?」
ジョバンニは少しだけ詠の方を向いた。暗がりの中で光る目が、穏やかだった。穏やかすぎた。
「……消えることは怖いよ。でも、詠に無理をさせてまで存在したいわけじゃないから」
その言葉を聞いた瞬間、詠の中で何かが弾けた。
「そういう考え方、嫌なんだよ!」
声が出た。自分でも驚くほど大きな声が。
「勝手に諦めないで! なんで自分のことなのにそんなに平気な顔してるの! 怖いなら怖いって言えばいいじゃん! 嫌なら嫌って」
声が途中で裏返った。恥ずかしかったけれど止まらなかった。
「言えばいいじゃん!」
図書室に声が響いた。本棚と本棚の間を反射して、余韻が数秒残った。アリアが目を丸くしていた。零が本から顔を上げていた。紫乃の扇が下がった。
ジョバンニが詠を見ていた。驚いた顔。それから、ほんの少しだけ笑った。
「……ごめん、怒った?」
「怒ってる! めちゃくちゃ怒ってる!」
「……怒ってくれた人間、初めてだから」
声が急にやわらかくなった。詠の怒りが行き場を失って、目の奥が熱くなった。
「怒るって、相手のことを気にしてるってことじゃないの」
「……そういう話、詠は好き?」
「好きかどうかわからないけど」詠は唇を噛んだ。「読みたいとは、思う」
ジョバンニのことを言っているのか。本のことを言っているのか。自分でもわからなかった。ただ胸が痛かった。零のことを「わかる」と思ったときとは違う種類の痛みだ。零は鏡みたいだった。自分と同じものが映っていて、だから近くて、安心できた。でもジョバンニは窓の外の星みたいだ。手が届かないのに、目を逸らせない。
この前は触れたのに。もう触れない。
零がその会話を、本棚の影で聞いていた。何も言わなかった。ただ自分の手を見ていた。開いて、閉じて、もう一度開いた。この手は物に触れられる。本を持てる。ペンを握れる。誰かの指先に触れることだってできる。それがジョバンニにはもうできなくなっている。
零は手を握りしめた。唇の端が、いつもと逆の方に歪んだ。




