表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/36

第6話「ジョバンニが、消えかけている」 Part 2

 零がカウンターに腰掛けたまま、淡々と言った。


「『銀河鉄道の夜』。最後に貸し出されたのは三年前。直近一年の貸出回数、ゼロ」


 数字を読み上げる零の声に感情はなかった。事実を事実として並べる。それが零のやり方だった。でも詠は気づいていた。零の目がジョバンニを見ないようにしていることに。いつもなら壁にもたれてこちらを見ているのに、今日は横を向いたまま、手元の文庫本のページも捲らずにいる。


「三年って……」

「教科書に載ってるから名前だけは知ってる。でも実際に手に取る人間は少ない。名前を知っていることと読むことの間には、かなり深い溝がある」


 零の言葉は正しかった。正しいからこそ深く刺さった。

 アリアがいつになく静かだった。いつもなら「お茶会!」と騒ぎだすのに、今日は膝を抱えて、ジョバンニをじっと見ていた。左右色違いの靴下はいつもより地味な組み合わせだ。アリアの元気は靴下に出ることを、詠はもう知っていた。紫乃は扇を閉じたまま、何も言わなかった。図書室の空気がひんやりと重くなった気がした。夏なのに。


 翌日、詠はポップを書いた。

 放課後の図書室で画用紙にペンを走らせた。何枚も下書きをして、色鉛筆の組み合わせを変えて、蛍光ペンで星の絵を添えた。どうすればこの本の魅力が伝わるか、ずっと考えた。ジョバンニとカムパネルラの旅。銀河を走る列車。窓の外に広がる天の川。


『この本を読んだら、夜空の見え方が変わります。夜の司書より』


 カウンターの一番目立つ場所に置いた。自分では上出来だと思った。

 一日経った。昼休みに図書室を覗くと、ポップの前を三人の生徒が通り過ぎた。誰も足を止めなかった。

 二日。やっぱり誰も手に取らない。「あ、このポップかわいい」と言ってくれた一年生がいたけれど、その子が手に取ったのは隣の棚の恋愛小説だった。

 三日目。ポップの角が少しめくれていたのを直しながら、詠は自分の無力さに唇を噛んだ。言葉が届かないのは慣れていたはずだった。SNSの書評だって二十三人にしか届いていない。でもこれは違う。届かないことの先に、誰かが消えるかもしれないのだ。


 その日の整理ボランティアの時間。修復が必要な古い本を探すため、書庫の奥を整理していた。

 書庫は図書室の裏手にある小さな部屋で、普段は施錠されている。烏丸先生から鍵を預かって、詠は週に一度、蔵書の状態を確認していた。ほこりっぽい空気の中で本棚の裏側を雑巾で拭いていると、壁と棚の隙間に古い扉があることに気づいた。

 木製の扉は歪んでいて、長い間開けられた形跡がなかった。ペンキが剥がれて、取っ手には錆が浮いている。手をかけると、ぎぎ、と嫌な音がして、少しだけ開いた。ほこりとは違う、もっと古い、時間そのものが澱んだような空気が漏れてきた。

 階段があった。下に続いている。


「……なにこれ」


 スマホのライトを点けて、恐る恐る降りていった。壁に手をつくと冷たくて湿っていた。十段ほど降りると、小さな地下室に出た。

 天井が低い。手を伸ばせば指先が届きそうだ。壁に沿って本棚がぐるりと並んでいて、何十年も動かされていないであろう本が詰まっていた。

 背表紙の文字が読めないほど色褪せたもの、表紙がぼろぼろに崩れかけたもの。革装丁の洋書は金文字が完全に消えて、中身が何なのかすら判別できなかった。


 その棚の隅に、かすかな光があった。

 蛍のように淡い光。ぼんやりとした球体が、本と本の隙間で揺れていた。ひとつじゃない。二つ、三つ、数えると十ほどの光が、棚のあちこちで明滅していた。規則性のない瞬き。まるで呼吸のように、ゆっくりと強くなったり弱くなったりを繰り返している。


「……あれは?」


 いつの間にか詠の後ろに立っていた紫乃が、静かに言った。


「消えた書人の残留思念です」


 心臓が跳ねた。振り返って紫乃を見た。紫乃の表情は穏やかだったけれど、目の奥に深い静けさがあった。千年を生きた人の目だ。何度もこの光を見てきた目だ。


「まだ完全には消えていないのです。本が物理的に存在している限り、かすかな意識の欠片が残ることがあります。けれどそれは、生きているとは言えません。夢も見ず、声も出せず、名前を呼ばれても返事ができず、ただ在るだけ」


 淡い光が揺れた。名前のない光。声のない光。かつて誰かだったもの。誰かの物語を生きていたもの。あの光の一つひとつに、アリアみたいに笑ったり、零みたいに皮肉を言ったり、紫乃みたいに誰かの頭を撫でた過去があったのだろうか。

 詠の背筋を冷たいものが伝った。夏の夜なのに体の芯から凍えていた。

 あれが、ジョバンニの未来だ。

 借りられなくなって、薄くなって、声が出なくなって、最後にはあの小さな光になる。暗い地下室の隅で、誰にも気づかれないまま、ただ在るだけの存在に。


「紫乃さん」

「はい」

「……あの人たちは、怖かったのかな。消えるとき」


 紫乃は少しの間黙って、それから扇を口元に当てた。


「怖かったと思いますよ。怖くないふりをしていた人も、いたかもしれませんけれど」


 紫乃の声が少しだけ低くなったことに、詠は気づいた。この人も、千年間ずっとこの恐怖のそばにいたのだ。仲間が一人、また一人と光になっていくのを見送ってきた。


 地下室から戻ると、ジョバンニが窓際にいた。いつもと同じ場所に、いつもと同じ姿勢で。けれど月明かりの中でその輪郭が前よりも薄いことが、もう詠の目には隠しようがなかった。さっき見てきた地下室の光が、まぶたの裏にちらついた。


「ジョバンニ」

「……なに」

「消えたくないって、思わないの?」


 ジョバンニは少しだけ詠の方を向いた。暗がりの中で光る目が、穏やかだった。穏やかすぎた。


「……消えることは怖いよ。でも、詠に無理をさせてまで存在したいわけじゃないから」


 その言葉を聞いた瞬間、詠の中で何かが弾けた。


「そういう考え方、嫌なんだよ!」

 声が出た。自分でも驚くほど大きな声が。

「勝手に諦めないで! なんで自分のことなのにそんなに平気な顔してるの! 怖いなら怖いって言えばいいじゃん! 嫌なら嫌って」

 声が途中で裏返った。恥ずかしかったけれど止まらなかった。

「言えばいいじゃん!」


 図書室に声が響いた。本棚と本棚の間を反射して、余韻が数秒残った。アリアが目を丸くしていた。零が本から顔を上げていた。紫乃の扇が下がった。

 ジョバンニが詠を見ていた。驚いた顔。それから、ほんの少しだけ笑った。


「……ごめん、怒った?」

「怒ってる! めちゃくちゃ怒ってる!」

「……怒ってくれた人間、初めてだから」


 声が急にやわらかくなった。詠の怒りが行き場を失って、目の奥が熱くなった。


「怒るって、相手のことを気にしてるってことじゃないの」

「……そういう話、詠は好き?」

「好きかどうかわからないけど」詠は唇を噛んだ。「読みたいとは、思う」


 ジョバンニのことを言っているのか。本のことを言っているのか。自分でもわからなかった。ただ胸が痛かった。零のことを「わかる」と思ったときとは違う種類の痛みだ。零は鏡みたいだった。自分と同じものが映っていて、だから近くて、安心できた。でもジョバンニは窓の外の星みたいだ。手が届かないのに、目を逸らせない。


 この前は触れたのに。もう触れない。

 零がその会話を、本棚の影で聞いていた。何も言わなかった。ただ自分の手を見ていた。開いて、閉じて、もう一度開いた。この手は物に触れられる。本を持てる。ペンを握れる。誰かの指先に触れることだってできる。それがジョバンニにはもうできなくなっている。

 零は手を握りしめた。唇の端が、いつもと逆の方に歪んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ