第6話「ジョバンニが、消えかけている」 Part 1
七月に入ると、図書室には夏の匂いが混じるようになった。
窓を開けたまま忘れられた教室から流れてくる湿った風と、日焼けした紙の匂い。放課後の校舎は蝉の声ばかりが響いていて、詠はカウンターに頬杖をつきながら返却本の整理をしていた。
夏休みまであと二週間。図書室に来る生徒は減っている。
期末テストが終わって開放感に浮かれたクラスメートたちは、カラオケやプールの予定を教室でわいわいと立てていた。今朝も隣の席の女子が「詠ちゃんも来ない? 市民プール!」と声をかけてくれたけれど「ごめん、ボランティアがあるから」と断った。嘘ではない。
でも本当の理由はプールが嫌いなことだ。水着姿を人に見せることに抵抗があるとか、そういう繊細な理由じゃない。単純に泳げない。小学校の授業で二十五メートルを五回不合格になったトラウマが、十七歳の今も水面に浮かんでいる。
詠にはクラスの輪に入る習慣がなかったし、入りたいとも思わなかったと、少し前までは本気で思っていた。
今はちょっとだけ違う。入りたくないわけじゃない。入り方がわからないだけだ。
その違いに気づいてしまったことが、少しだけ面倒くさかった。
メッセンジャーアプリのグループを開く。
「期末お疲れ〜!」「カラオケ何歌う?」「ていうか日曜どうする?」。流れていく会話を眺めながら、何か返そうとしてやめた。「お疲れ」の言葉すら、タイミングがわからない。初めてと返信したときは、指が震えるくらい緊張した。
たかがメッセージ一つで大げさだと思うけれど、これまでずっと、誰かに言葉を向けること自体を避けてきたのだから仕方がない。
スマホをしまって、ため息をひとつ。購買のメロンパンは今日も売り切れだった。いつ行けば買えるのだろう。昼休みの開始三分前に並ばないと無理なのではないか。でもその三分前には授業が終わっていないのだから、構造的に不可能なのだ。永遠に手に入らないメロンパン。なんだか自分の人間関係みたいだと思って、自分の比喩のセンスに少し落ち込んだ。
返却棚から本を取り上げて、背表紙を確認する。『不思議の国のアリス』。さっき一年生の女子が返していった本だ。表紙に折り目はない。ページも綺麗なまま。ほっとして、所定の棚に戻す。
アリアのことを考えた。この本が返却されるたびに、アリアは不思議な安心感を顔に浮かべる。本人は「別に気にしてない」と言うけれど、靴下の色の組み合わせがちょっとだけ派手になるから、嬉しいのだとわかる。
次の本を手に取る。『人間失格』。常に誰かしらが借りていく太宰治の定番。零のことを考えた。
零はこの本が借りられるたびに少しだけ機嫌がよくなる。本人は絶対に認めないけれど、カウンターに返却本として戻ってくると、何食わぬ顔で中身を確認しているのを詠は知っていた。
折り目がないか、書き込みがないか。乱暴に扱われていないか。「別に」と言いながら表紙の角をそっと直すその手を見るたび、詠は小さく笑いそうになる。本を大切にする人の手だ。どんなに素っ気ない顔をしていても、手は嘘をつけない。
そこまで考えて、詠の手が止まった。
棚の端、ちょうど窓際の一番奥。『銀河鉄道の夜』が一冊だけ、そこにあった。
背表紙の色が褪せている。藍色だったはずの文字は灰色に近くなり、図書室の蔵書印だけがかろうじて読み取れる。この本は詠がこの学校に来てからずっと、同じ場所に立っている。指でそっと背表紙に触れた。ほこりが薄くのっていた。隣の本にはほこりがないのに。手に取る人がいれば、ほこりは積もらないのだ。
胸の奥がきゅっと締まった。
閉館作業を終え、整理ボランティアの時間に入る。最後の利用者が出ていった後の図書室は、昼間とは別の場所みたいだった。蛍光灯を半分だけ点けた薄暗い空間で、書人たちが姿を現した。いつもの光景だ。
アリアが本棚の上からぴょんと飛び降りて「今日はお茶会日和!」と宣言し、紫乃が「アリア、そこから飛び降りるのは危険ですよ」と扇を口元に当てた。零はいつもの壁際にもたれて文庫本をぱらぱらとめくっている。ページをめくる音が一定のリズムを刻んでいて、それが妙に心地よかった。
そしてジョバンニは窓際にいた。いつもと同じ場所に、いつもと同じ姿勢で。月明かりに照らされた横顔を見て、詠は先週のことを思い出した。
あれは先週のことだ。
詠が書庫の高い棚から本を取ろうとして、踏み台の上でバランスを崩した。つま先が踏み台の縁を踏み外して、体が傾く。反射的に棚を掴もうとしたけれど、手は空を切った。本が一冊、二冊、棚から滑り落ちる。とっさにジョバンニが手を伸ばして本を受け止め、詠も反射的に手を出した。
指先が触れた。
ジョバンニの指先は冷たいかと思っていた。夜みたいに。星みたいに。でも違った。温かかった。人間と同じ温度がそこにあった。しっかりとした質量。本を受け止めた手のひらの硬さと、指先のわずかな熱。書人の体は本から生まれたものだと聞いていたから、紙みたいな手触りを想像していた。でもそうじゃなかった。人間と同じだった。
「あ、温かい」
思わず声が出た。ジョバンニが詠を見た。暗がりの中で光る目が、少しだけ見開かれていた。
「……うん。君も」
たったそれだけの言葉だった。でも詠の心臓は壊れたみたいに跳ねて、慌てて手を引いて眼鏡を直した。触れた指先がしばらくじんじんしていた。本を棚に戻すふりをして顔を背けたけれど、耳が熱かった。絶対に赤くなっていた。
あのとき確かに、ジョバンニはそこにいた。温度があった。重さがあった。存在していた。
だから今日、詠は自然にジョバンニのそばに寄った。窓際の定位置。星を見ているジョバンニの横に立って「今日は何の星が見える?」と聞こうとした。最近はこれが毎晩の日課みたいになっていた。ジョバンニが星の名前を教えてくれて、詠がそれをスマホのメモに打ち込む。ベガ、アルタイル、デネブ。夏の大三角。ジョバンニの声で覚えた星座は、一人で見上げる空よりずっと近かった。
何気なく、ジョバンニの腕に触れた。
手が通り抜けた。
抵抗がなかった。空気を掴むように、詠の指はジョバンニの腕をすり抜けて向こう側に出た。
「え」
声が固まった。もう一度触れようとした。また通り抜けた。三度目も、四度目も同じだった。詠の手はジョバンニの体を捉えられない。先週は確かに触れたのに。温かかったのに。
「ジョバンニ」
名前を呼んだ。声が震えていることに自分で気づいた。
ジョバンニは窓の外を見たまま、静かに言った。
「……ごめん。最近、こうなることが増えて」
月明かりに照らされたジョバンニの輪郭が、わずかに透けていた。向こう側の窓枠が、うっすらと見えた。透けている。本棚の前に立てば、きっと背表紙の文字が読めてしまうくらいに。
たった一週間だ。たった一週間で、ジョバンニの体はここまで薄くなっていた。
詠は通り抜けた自分の手を見た。何も掴めなかった指先が、夜の空気の中で震えていた。握りしめても空っぽだった。何度握っても、指の間には空気しかなかった。
あの温度を知っている。たった一度だけ触れたあの温度を。
それがもうどこにもなかった。




