第5話「紫乃の話は、千年分ある」 Part 3
二日後。詠は生徒会室の前に立っていた。
前回、企画書をデータなしで持ち込んで撃沈したのが五月の終わり。あれから二週間、図書室の利用データを自分で調べ直した。過去三年分の月別貸出数、時間帯別の来室者数、人気ジャンルの推移。全部ノートにまとめた。数字を追っているうちに、図書室が「じわじわと忘れられていく場所」になっていることが、残酷なほどはっきり見えてきた。
三年前と比べて、貸出数は四割減。来室者数は半分以下。数字が突きつける現実は、書人たちの体調低下とぴったり重なっていた。
深呼吸して、ドアをノックした。
「失礼します」
桧山楓は長机の向こうで手帳を開いていた。ショートヘアに、きっちり着た制服。前回と同じ、隙のない佇まい。窓から差し込む曇りの日の光が、彼女の横顔を白く照らしている。
「柊木さん。また来たんですね」
声に敵意はない。でも歓迎もない。事実を述べただけ。この人はいつもそうだ。
「はい。前回の反省を踏まえて、データを持ってきました」
ノートを開いて説明した。利用者数の推移、閑散期と繁忙期のパターン、文化祭展示による集客効果の試算。声が震えないように、ゆっくり話した。前回みたいに頭が真っ白になるのだけは避けたかった。だから昨夜、鏡の前で三回練習した。零に「何してるの」と聞かれて「独り言」と答えたら「嘘が下手だな」と言われた。余計なお世話だ。
桧山さんはノートに目を通しながら、ときどき自分の手帳にメモを取っていた。ページをめくる手つきが丁寧で、数字を追う目が鋭い。前回と違って、最後まで聞いてくれている。この人は、ちゃんと読んでくれる人だ。
「利用者の推移はわかりました」
桧山さんがノートを閉じた。来ると思った。前回もこのタイミングで切り込まれた。背筋が自然と伸びる。
「でも、文化祭で展示して、それが終わったあとどうするんですか? 一回のイベントで終わるなら、予算を割く意味がありません」
別の角度だった。前回は「データがない」で切られた。今回は「その先がない」で切られた。この人は、同じ攻め方をしない。ちゃんと詠の資料を読んで、その上で穴を突いてくる。だからこそ手強い。
正直に言った。
「……すみません。そこは、まだ考えきれていません」
「企画の熱意は伝わります。データも前回よりずっと良い。でも熱意と数字だけでは予算は動かせません。次に来るときは、文化祭後の継続的な施策も含めて提案してください」
桧山さんが手帳を閉じた。そのとき。
内ポケットから文庫本の角がちらりと覗いた。
桧山さんの目が一瞬だけ泳いだ。次の瞬間、手帳を胸に押さえた。ものすごい反射速度だった。体育の授業で見たどのレシーブよりも速い。
詠はそれを見た。黄色っぽく焼けた文庫本の角。読み込まれた本特有の、柔らかくなったページの端。あの本は、ずっとあの手帳の中にいるのだ。毎日持ち歩いて、毎日守っている。
でも、何も言わなかった。
(桧山さん、本を持ってる。手帳じゃなくて、本を守ったんだ。あの人も読む人だ。数字と効率で武装している人の胸ポケットに、一冊の文庫本が眠っている。それはたぶん、桧山さんにとっての秘密だ。私が夜の図書室を秘密にしているみたいに。)
生徒会室を出て、廊下を歩いた。窓の外は曇り空で、六月の湿気が肌にまとわりつく。上履きが廊下を叩く音が、やけに大きく聞こえた。
悔しかった。でも前回みたいには泣かなかった。泣く代わりに考えていた。文化祭の「その先」。一回で終わらない仕掛け。図書室に人が来続ける理由を、どうやって作ればいいのか。
(桧山さんが示した「穴」は、私が次に埋めるべき場所だ。敵じゃない。この人は地図をくれているのかもしれない。「ここが足りない」という地図を。)
夜の図書室で、そのことを話した。
「また斬られた」
「知ってる。お前の顔に書いてある」零が壁にもたれたまま言った。
「顔に出すなって言ったのに」
「言った。でもお前は出す。毎回出す。そういうやつだから、もう諦めた」
「諦めないでよ」
「諦めたっつってんだろ。……で、次はどうすんの」
零の声は乱暴なのに、ちゃんと「次」を聞いてくれる。この人はいつもそうだ。突き放すふりをして、ちゃんとこっちを見ている。
紫乃が詠の隣に来て、そっと聞いた。
「どんなことを言われたのですか」
「文化祭で終わりじゃ意味がないって。その先の仕組みも考えろって」
「まっとうなご意見ですね」
「……はい。まっとうだからきつい」
アリアがソファの上で膝を抱えていた。
「あの人、嫌いだ」
「嫌いとかじゃないよ、アリア。桧山さんは正しいことを言ってる」
「正しいことが正しいとは限らないもん」
「……それ、不思議の国の理論?」
「アリア理論!」
少しだけ笑えた。アリアの無茶苦茶な論理が、いつも詠の力の入りすぎた肩を下ろしてくれる。
ジョバンニが窓際から振り返った。雨粒が窓を伝い落ちる光が、ジョバンニの横顔を濡らしているみたいに見えた。
「……詠。言葉は、雨に似ている」
「え?」
「……降っているとき、どこに届くか、自分では選べない」
零が小さく「また翻訳が要るやつだ」と呟いた。
でも今回は翻訳しなくてもわかった。ジョバンニの言葉が、まっすぐ胸に落ちてきた。
「……届かないかもしれない、ってこと?」
「……届かなくても、降り続けていいってこと」
ジョバンニの目が、暗い図書室の中でかすかに光っていた。雨の夜なのに、星みたいに。窓ガラスの水滴がその光を散らして、小さな銀河みたいだった。
喉の奥が詰まった。
「私の言葉なんて、誰かに届いたことない」
言ってしまってから後悔した。弱音だ。夜の司書が弱音を吐いてどうする。書人たちを守る側が、こんなところで崩れてどうする。
静寂。雨音だけが図書室に満ちている。零もアリアも黙っていた。
紫乃が口を開いた。
「今、私に届いていますよ」
紫乃は微笑んでいた。千年分の時間を重ねた、深くて静かな微笑み。扇を膝の上に置いて、両手を重ね、まっすぐ詠を見ていた。
「あなたの言葉は、いつも届いています。この図書室の中では、ずっと」
眼鏡を直した。泣きそうだったからだ。たぶん紫乃にはバレている。千年分のデータベースには「眼鏡を直すのは泣きそうなとき」もきっと入っている。
でも紫乃は何も言わなかった。黙って扇を開いて、詠の横顔にそっと風を送ってくれた。六月の夜にはまだ少し冷たい風。でも、優しかった。千年分の優しさが、竹の扇の向こうから吹いてきた。
帰り道、頭の中を桧山さんの言葉がぐるぐる回っていた。一回で終わらない仕掛け。文化祭をゴールじゃなくて、スタートにする方法。
三行レビュー掲示板を常設にする。月替わりの特集コーナーを作る。文化祭はそのキックオフにすればいい。歩きながら、アイデアが少しずつ形になり始めていた。ノートを鞄から引っ張り出して、信号待ちの間にメモを取った。雨で紙が少し湿った。でも構わなかった。
家に着いてからスマホを開いた。SNSの読書アカウント。フォロワー二十三人の、誰にも教えていない小さなアカウント。
今日は何も書けなかった。代わりにタイムラインを眺めた。いつもいいねをくれるあの人が、今日も誰かの投稿にいいねを押していた。
(この人、どんな人なんだろう。顔も名前も知らないのに、私の言葉をずっと読んでくれている人。)
紫乃の声が頭の中で響いた。
「今、私に届いていますよ」
届いている。本当に? 本当に届いているなら、もう少しだけ、言葉を降らせ続けてもいいのかもしれない。どこに届くかわからなくても。届かないかもしれなくても。雨がそうであるように。
雨はまだ止んでいなかった。詠は少しだけ背筋を伸ばした。明日また企画書を書こう。今度はその先も含めて。降り続けることはできる。




