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第5話「紫乃の話は、千年分ある」 Part 2

 翌日の夜。修復リストの整理をしながら、詠はぼんやりしていた。手は動いているのに頭が別のところにある。古い蔵書の背表紙をクロスで拭きながら、昼間のことを思い出していた。


 二時間目の休み時間、廊下の窓から見えた中庭。雨上がりの水たまりに空が映っていて、それがなぜかジョバンニの目に似ていると思ってしまった。暗いのに光っている。光っているのに寂しい。そんなことを考えている自分に気づいて、慌てて教科書を開いた。古典の教科書だった。開いたページが『源氏物語』で、紫乃の顔が浮かんで、結局どこを見ても夜の図書室につながってしまう。


 四時間目の終わりに日向が廊下で声をかけてきた。日向は「メロンパン買っといた」と言ってメロンパンを手渡すと走っていった。あの人はいつもさりげない。さりげなすぎて、もらったメロンパンの袋を握りながら少しだけ困った。ありがたいのに、なんと返していいかわからない。


 そのあと、図書室で『銀河鉄道の夜』の貸出カードを確認したときの、あの古い紙の匂い。最後に借りられたのは三年前。カードに書かれた名前のインクが薄れかけていて、まるでジョバンニの体みたいだと思った。指でなぞったら消えてしまいそうな、危うい輪郭。


 クロスを持つ手が止まっていた。隣の棚に視線をやると『不思議の国のアリス』が並んでいる。その横に『人間失格』。さらに横に『源氏物語』。この棚の本たちが、夜になると人間になってそこにいる。その事実に慣れてきている自分が、ときどき不思議だった。二か月前の詠が聞いたら信じないだろう。信じないどころか、心配するだろう。でも今の詠は、この非現実的な日常のほうが、教室よりもずっとリアルに感じている。


「詠さん、誰かのことを考えていますね」


 紫乃の声が、真横から聞こえた。いつの間にそこにいたのか。気配がまるでない。千年生きると足音まで消えるのだろうか。心臓が跳ねて、持っていたクロスを取り落としそうになった。


「え、なんで」

「千年も生きていると、恋する人の顔は見分けがつくようになります」

「恋じゃないです!」


 声が裏返った。カウンターの向こうで零が本から目を上げた。前髪の隙間から覗く目が、何か言いたそうにこちらを見ている。いや、何も言わないでほしい。頼むから。詠は慌てて視線を逸らして、手元の蔵書に集中するふりをした。背表紙を拭くクロスの動きが明らかに雑になっている自覚はあった。

 紫乃が扇の向こうで微笑む気配がした。扇で口元を隠しているから表情は見えないのに、笑っているのがわかる。千年分の余裕が、空気を通して伝わってくる。ずるい。こっちは十七年分の経験値しかないのに。


「そうですか。では……恋未満、ですね」

「なんで」

「その反応が『恋未満』の方の反応だからです。恋の方は否定しませんから」

「千年分のデータベースすごい」

「源氏物語には恋のパターンがすべて書かれています。あなたのご状況は、そうですね、さしずめ『若紫』の巻に似たご状況でしょうか。まだ自分の感情に名前がつけられない段階。相手の姿を目で追っているのに、それを『好き』と呼んでいいかわからない」

「違います!」

「恋バナ!? 聞く聞く!」


 本棚の陰からアリアが飛び出してきた。いつから聞いていたのか、目がきらきら光っている。さっきまでソファで寝ていたはずなのに、恋バナセンサーだけは睡眠中も常にオンらしい。金髪のショートボブに寝癖がついている。


「アリア、盗み聞きは」

「盗み聞きじゃないよ! 聞こえちゃっただけ! ねえ誰のこと考えてたの? ジョバンニ? 零? まさか日向? 全員? それだと大変だよ!?」

「全然違う! あと全員って何!?」


 全部違うと言ったのに、なぜか心臓がうるさい。全部違うはずなのに。もう一回言おう。全部違う。

 零が柔らかい表紙の文庫本をアリアに向かって投げた。ぽすっ、とアリアの頭に当たる。


「うるさい」

「痛い! あ、でもこれ柔らかい本だ。零、優し」

「うるさいって言ってるだろ」


 零は何事もなかったかのように本に目を戻した。けれどページをめくる手が少しだけ速い。さっきから同じページにいたはずなのに、急に三ページくらい進んだ。読んでいるのか読んでいないのか、怪しいところだ。

 紫乃がアリアの頭を扇でそっと撫でた。


「アリア、お座りなさい。恋の話は繊細なものですよ」

「えー。でも気になる」

「気になっても、相手が話したくないときは待つのです。千年待った私が言うのですから、間違いありません」

「千年は長すぎでしょ!」


 アリアが紫乃の膝に頭を預けた。紫乃が扇でアリアの髪を撫でる。金色のショートボブが紫乃の深紫の膝の上に広がって、その組み合わせがなぜか絵画みたいだった。不思議の国の少女と千年前の女性。現実にはありえない二人が、こんなにも自然に寄り添っている。詠は笑ってしまった。この人たちの会話は、いつも予想の斜め上を行く。


 作業に戻ろうとしたとき、ふと紫乃に聞きたいことを思い出した。修復リストの優先順位のこと。どの本から手をつけるべきか、千年の知恵を借りたかった。


「紫乃さん」


 名前を呼んだ瞬間、紫乃の、扇を持つ手が止まった。

 ほんの一瞬。まばたきひとつ分の静止。アリアの髪を撫でていた手が宙に浮いて、それからすっと元に戻った。いつもの穏やかな表情。でも、詠はそれを見逃さなかった。何かが紫乃の中を通り過ぎた。電流みたいに、一瞬だけ。


「はい、なんでしょう」

「……いえ、あの、修復リストの優先順位なんですけど」

「ええ」


 会話は普通に続いた。紫乃は丁寧に修復の緊急度を説明してくれた。どの本が一番傷んでいるか、どの順番で手をつけるべきか。詠はノートにメモを取った。何事もなかったみたいに。でも、さっきの一瞬がずっと引っかかっていた。

 「紫乃さん」と呼んだとき、なぜ手が止まったのだろう。名前を呼ばれることが、紫乃にとって何か特別な意味を持つのだろうか。毎日呼んでいるのに。毎晩「紫乃さん」と言っているのに。今日の「紫乃さん」は何が違ったのだろう。

 理由はわからなかった。聞くタイミングも逃してしまった。でも、覚えておこうと思った。あの一瞬を。いつかきっと、意味がわかる日が来る。そう信じられるくらいには、詠はこの図書室を、この図書室にいる人たちを、信用し始めていた。

 帰り支度をしているとき、零が背中越しに言った。


「お前、さっきのあれ、紫乃にバレてたぞ」

「あれって何」

「ぼんやりしてたやつ。紫乃は人間の嘘なんか全部お見通しだろ」

「嘘なんかついてない」

「嘘じゃないなら、なんだよ」

「……わかんない」

「わかんないのに顔に出すな。迷惑だから」


 零はそれだけ言って、本棚の影に消えた。くたびれた白シャツの背中が暗がりに溶けていく。唇の端がいつもみたいに上がっていたけれど、今夜はどっちだろう。笑っているのか、嘲っているのか。それともどっちでもない、三つ目の何かなのか。

 迷惑って何。顔に出すなって何。でも不思議と嫌な気持ちにはならなかった。零の「迷惑」は、たぶん「迷惑」じゃない。翻訳するなら「気になる」かもしれない。ジョバンニ語だけじゃなくて、零語の翻訳も必要になってきた。面倒な人たちだ。面倒で、大切な。

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