第5話「紫乃の話は、千年分ある」 Part 1
六月に入ると、図書室の窓ガラスに雨粒がつく日が多くなった。梅雨前線が関東に居座っているらしい。朝のニュースで天気予報士が「しばらく傘が手放せません」と言っていたのを思い出しながら、詠は折りたたみ傘を鞄に押し込んだ。
放課後の整理ボランティアを終えて書庫に入ったとき、空気がいつもと違うことに気づいた。古い紙の匂いに混じって、甘いような、けれどどこか寂しいような香りがする。線香でもない、花でもない、もっとずっと古い時間の匂い。湿気のせいで匂いが強くなっているのかもしれない。本は湿気に弱い。だから六月の図書室は、いつも少しだけ切迫している。
奥の棚に手を伸ばして、目的の本を引き出した。
『源氏物語』。烏丸先生が「修復が必要な本リスト」に挙げていた一冊だ。
背表紙の布が擦り切れて、中のページも端が茶色く変色している。丁寧に開くと、糸綴じの部分がほつれかけていた。指先で触れただけで繊維がぱらぱらと崩れそうで、息を止めた。この本がどれだけの人の手を渡ってきたのか、傷み方を見ればわかる。たくさん読まれた本ほど、深く傷つく。人間みたいだと思った。
これは、かなりまずい。
烏丸先生は昨日、職員室でこう言っていた。
「修復に出すと結構な費用がかかるのよね。新しい版を買い直すか、検討中なの」
先生はいつもの穏やかな笑顔だったけれど、「予算ゼロだね」と笑うときと同じ種類の笑顔だった。悪気はない。でも現実は容赦がない。
その言葉が詠の中でずっとひっかかっていた。版が変わるということは紫乃にとって、どういう意味を持つのだろう。書人の体は、図書室にある「その本」と結びついている。版が変わったら、紫乃はどうなるのか。別の紫乃になるのか。それとも考えたくなかった。でも考えないわけにはいかなかった。
夜の図書室。閉館後の、書人たちだけの時間。自販機の紅茶がテーブルの上でかすかに湯気を立てている。詠はカウンターに座る紫乃に向かって、できるだけ平静に切り出した。
「烏丸先生に聞いたんですけど、書庫の『源氏物語』の古い版、修復費用がかかるから、新しい版に買い替えるかもしれないって」
紫乃は深紫の重ね着の袖を膝の上に整えてから、扇を口元に当てた。その仕草がいつもより少しだけ遅かったと思ったのは、気のせいだったかもしれない。静かに目を閉じた。
沈黙が三秒。雨音だけが図書室に響いている。蛍光灯がわずかにちらついて、紫乃の影が揺れた。
「そうですか」
一言だった。
怒りでも悲しみでもない。ただ静かな受容。まるで大きな川の流れを眺めるような、穏やかすぎる声。それが逆に怖かった。自分の体にかかわる話なのに、どうしてそんなに静かでいられるのだろう。
「怖くないんですか?」
思わず聞いていた。紫乃の体は、この図書室にある『源氏物語』と結びついている。版が変わるということは詠には正確なルールがわからない。でも、何かが変わるかもしれない。何かが失われるかもしれない。その「何か」が紫乃自身だったらと思うと、喉の奥がきゅっと締まった。
紫乃は窓の外の雨を見つめながら答えた。
「千年生きると、怖いものが遠くなっていくのです。海の向こうの嵐を見るような感じで」
「……嵐が近づいてきたら?」
「そのときは風を受け止めるだけです」
扇の先が、わずかに震えていた。本人は気づいていないのかもしれない。でも詠は見た。紫乃の細い指先が、扇の竹骨を握りしめている。平気なふりをしている。この人は、千年間ずっとそうやって平気なふりをしてきたのだろうか。何度も何度も版が変わり、何度も何度も「そうですか」と受け止めてきたのだろうか。
「でも……あなたが消えるのは嫌です」
言ってしまってから、自分の言葉に驚いた。こんなに真っ直ぐに、誰かに「嫌だ」と言ったのはいつぶりだろう。転校を繰り返すうちに、「嫌だ」と言うことをやめた。引っ越しが嫌だ。友達と離れるのが嫌だ。言ったところで何も変わらないから、感情の蛇口を閉めることを覚えた。でも今は、蛇口が勝手に開いた。閉められなかった。
紫乃が目を開けた。一瞬、本当に一瞬だけ、まばたきが止まった。扇を持つ手がぴくりと動いて、それから微笑んだ。
「大丈夫ですよ。版が変わっても、物語は残ります。私が残るかどうかは……物語が残るかどうかとは、少し違う話ですけれど」
千年間、読まれ続けてきた。それは誇らしいことかもしれない。でも「読まれること」と「大切にされること」は違う。物語として消費されることと、一人の存在として心配されることは、全然違う。紫乃の微笑みの奥にあるものが、じわりと胸に沁みてきた。
「少し、って」
「詠さん」
紫乃が扇で軽く私の手の甲を叩いた。ひんやりした竹の感触が、不思議と落ち着く。
「深刻な顔をなさらないでください。千年分の心配をされたら、さすがの私も困ります」
「……千年分はしてないです。せいぜい十七年分」
「十七年分でも、重いですよ。人間の心配は」
紫乃はそう言って、テーブルの上の紅茶に手を伸ばした。ペットボトルを両手で包むように持って、一口飲む。「自販機の紅茶も、悪くないものですね」と呟いた。千年前の人が自販機の紅茶を飲んでいる。その光景がおかしくて、少しだけ泣きそうで、詠は眼鏡を直した。
雨の音が図書室に染み込んでいく。紫乃の深紫の重ね着が、薄暗い照明の下でかすかに光っている。千年前の人が、こうして雨の夜に目の前に座っている。平安の世から令和まで、どれだけの雨の夜を一人で過ごしてきたのだろう。そのすべての夜を、「そうですか」と受け止めてきたのだろうか。
奥のソファでアリアが寝息を立てていた。最近、以前よりもよく眠る。図書室の閑散期が続いているせいだ。靴下は左が水色、右がラベンダー。寝顔は子どもみたいに無防備で、いつもの元気が嘘みたいに静かだった。
零は本棚に背中を預けて文庫本を読んでいるが、ページをめくるペースがいつもより遅い。声のかすれも、まだ治っていない。
ジョバンニは窓際の定位置で、雨に煙る夜空を見上げていた。雨雲の向こうに星を探しているのかもしれない。見えなくても、あるんだよ。前にそう言ったのは、ジョバンニだった。
みんな、少しずつ元気がない。
それが詠にはたまらなく怖い。海の向こうの嵐なんかじゃない。すぐそこにある、手を伸ばせば触れられる場所で、この人たちが薄れていく。その恐怖は十七年分どころじゃない。たぶん、初めて感じる種類の怖さだった。失いたくないものができてしまった怖さ。転校のたびに味わってきたはずなのに、今回はぜんぜん違う。今回は自分の手で、何かできるかもしれないから。何もできないと知っている怖さより、何かできるかもしれないのにまだ何もできていない怖さのほうが、ずっと重い。
紫乃がペットボトルを置いた。ことん、と静かな音がした。
「さて。修復リストの整理を始めましょうか」
千年の人が、何事もなかったように微笑んでいる。詠は「はい」と答えて、書庫の棚に向かった。




