第4話「アリアは、なんで? が止まらない」 Part 3
笑ったあとの空気は、少しだけ柔らかかった。アリアが「お茶会にしよう!」と叫んで自販機の方向を指さしたけれど、紫乃が「まだお話の途中ですよ」とたしなめた。アリアは「えー」と口を尖らせたけれど、おとなしく座り直した。足をぱたぱたさせているが、その色が薄いことが、笑ったあとの胸をちくりと刺す。
零がずっと黙っていた。壁にもたれたまま、腕を組んだまま。企画申請の話も、桧山に切られた話も、全部聞いていたはずだ。でも何も言わなかった。零はそういう人だ。言いたいことがあるときほど黙る。言いたくないときほどしゃべる。
詠が黙ったタイミングで、零が口を開いた。
「……お前、相談するって選択肢がなかったんだろ」
心臓が跳ねた。見透かされた。でも驚きはなかった。零にはいつも見透かされる。
(この人は鏡みたいだ。私の中にあるものを映す鏡。映してほしくないものまで、全部映す。)
「……うん」
「なんで」
「なんでって……」
言葉を探した。「一人でやるのが普通だから」とか「頼るのが苦手だから」とか、いくらでも理由はある。でも零の前では、そういう言い訳が嘘みたいに聞こえる。この人は『人間失格』の書人だ。自分を偽ることについて、誰よりも敏感な人。嘘は通じない。
「……頼ったら、いなくなったとき困るから」
本当のことを言った。声に出したら思ったより小さい声で、自分でも聞き取れなかったかもしれないと思った。でも零には聞こえていた。この人の耳は、小さい声ほどよく拾う。
零が一瞬、目を細めた。それが「わかる」の顔なのか「呆れた」の顔なのか、判別がつかなかった。唇の端がいつものように少し上がっているけれど、笑っているわけじゃない。何かを飲み込むために上げているみたいだった。
「次は言え」
「え」
「相談しろってことだ。別に聞いてやるとは限らないけど」
「どっちなの」
「……聞いてやるよ。たぶん」
零の声はぶっきらぼうで、目はそっぽを向いていて、唇の端だけが少し上がっていた。笑っているのか嘲っているのかわからない、いつもの零の表情。でも今日は、そこに別の色が混じっている気がした。言葉では突き放しているのに、意味は引き寄せている。この人の不器用さは、もはや才能だと思う。
(「たぶん」って何。聞いてくれるの? くれないの? でも、零がそう言ってくれたことが、すごく。)
すごく、なんだろう。嬉しい、とは違う。安心する、とも違う。胸の真ん中にある結び目が、少しだけ緩んだ感覚。
眼鏡を直した。
「……ありがとう」
「礼なんかいらない。次ちゃんとデータ持ってけよ」
「それは言われなくてもやる」
「ならいい」
会話が終わった。でも空気は終わっていなかった。何かが部屋の中に残っている。零は壁にもたれ直して目を閉じた。その横顔を見ていたら、ジョバンニの声が窓際から聞こえた。
「……詠」
一拍の間。ジョバンニはいつも詠の名前を呼ぶ前に、一拍おく。
振り返ると、ジョバンニが窓の外を見ていた。さっきまでうつむいていた背筋が、少しだけ伸びている。
「……星が、見えるよ」
窓に近づいた。ジョバンニの隣に立つと、曇り空の隙間から小さな光が一つだけ覗いていた。頼りない光。でも確かにそこにある。
「あれ、なんの星?」
「……わからない。でも、ある」
「見えなくても、あるやつ?」
「……今日は、見えた」
ジョバンニが少しだけ笑った。暗い中で目が光っていた。星みたいに。うつむいていたジョバンニが顔を上げてくれたことが、今日一番うれしかった。言葉にしたら大げさになるから、言わなかった。でも胸の中で、さっきとは違う何かが動いた。零のときに緩んだ結び目とは別の場所が、きゅっと締まる感覚。
アリアが「お茶会! お茶会の時間!」と今度こそ叫んで走り回った。詠は全員分の紅茶を買いに自販機へ走っていった。
「走るなっつってんだろ」と零が追いかけた。追いかけ方が雑で、本棚の角にぶつかった。「いっ」と小さく声を出したけれど、速度は落とさなかった。
「あらあら」と紫乃が扇で口元を隠して笑った。ジョバンニが窓際で静かに微笑んでいた。
この景色を、守りたい。
その思いが、理屈じゃなくて、胸の真ん中にすとんと落ちた。
(この人たちが笑っている夜を、続かせたい。アリアが走り回って、零がそれを追いかけて、紫乃が笑って、ジョバンニが星を見ている。この夜を。そのために私ができることを、今度はちゃんと考えよう。一人じゃなくて。)
紅茶を持って戻ってきた詠が人数分のペットボトルをテーブルに並べた。
「はい、お茶会開廷!」
「開廷じゃなくて開催でしょ」
「同じだよ!」
「全然違う」
「有罪! 細かいこと言う罪!」
「それは無罪」
くだらない言い合いをしながら、紅茶のキャップを開けた。自販機の紅茶はいつもぬるい。でもアリアは「おいしい!」と満面の笑みで飲んでいるし、紫乃は「温かいお茶は心を解きますね」と優雅にペットボトルを傾けているし、零は一口飲んで「まずい」と言いながら全部飲んだ。ジョバンニは両手でペットボトルを包んで、「……温かい」と呟いた。前にも同じことを言っていた。この人にとって温かさは特別なものなのだと思った。銀河鉄道の旅は、きっと寒かったから。
帰り道。夜の八時前。街灯が等間隔に並ぶ道を歩きながら、スマホを取り出した。
メッセンジャーアプリ。クラスのグループ。未読メッセージが溜まっている。いつもならそのまま閉じる。既読をつけないまま放置する。紫乃に「平安では大変な無礼ですね」と言われたことを思い出す。あのとき莉子の顔が浮かんだことも。
スクロールしていくと、一番下に誰かのメッセージがあった。
『明日の体育なに持ってくるんだっけ?』
指が止まった。
答えるだけだ。たったそれだけのことだ。企画書を持って生徒会室のドアをノックするよりずっと簡単なことだ。なのに指が震える。
深呼吸した。打った。
送信した。
三秒後、スタンプが飛んできた。
『ありがとー!!』
それだけだった。それだけのことだった。たった一行の返信と、一個のスタンプ。用件だけのやりとり。でも、なぜか少し、温かかった。自販機のぬるい紅茶よりも。
空を見上げた。雲が多くて、星はほとんど見えない。でもジョバンニが言っていた。見えなくても、ある。
(明日、利用者データを調べよう。烏丸先生に聞けばファイルがあるはずだ。それから企画書を書き直して、もう一回生徒会に行く。今度は一人で転ばない。たぶん。)
「たぶん」と心の中で付け足したのは、零の真似だった。「聞いてやるよ、たぶん」の「たぶん」。
自分で気づいて、少しだけ顔が熱くなった。眼鏡を直した。誰にも見られていないのに。
アリアに「なんで帰らないの?」と聞かれて答えられなかった。でも今なら、少しだけわかる気がする。帰らないんじゃない。帰れないんだ。あの夜の図書室が、もう詠の一部になってしまったから。あの人たちの声が、笑い方が、沈黙が、紅茶の温度が、全部。
それを「居場所」と呼んでいいのか、まだわからない。どうせ転校するかもしれない詠に、居場所を持つ資格があるのか。
でも、なんとかしたいと思った。それだけは、本当だ。
メッセンジャーアプリの通知がまた光った。別の誰かが『柊木さんありがとー! 助かったー!』とメッセージを送ってきていた。
返信はしなかった。でも、既読はつけた。
それが今の詠にできる、精一杯の「入り口」だった。




