第4話「アリアは、なんで? が止まらない」 Part 2
なんとかする、と言ったからには、なんとかしなければならない。
翌日の朝、教室に入る前に廊下の窓から図書室がある棟を見た。三階の端。カーテンの閉まった窓。あの向こう側に、色の薄くなった書人たちがいる。昼になればまた本棚に戻って、夜が来るまで眠る。
(そのあいだに私がやれることを、やる。)
詠は動き始めた。図書室にもっと人を呼ぶ方法。授業中もずっと考えていた。
考えて考えて、一つの答えにたどり着いた。
文化祭で、図書室の展示をやろう。
ホームルームで「なんでもいいです」と言った口が、今度は別の場所で開こうとしていた。生徒会に企画申請を出す。文化祭の展示枠は限られているけど、空きがあるかもしれない。感情で分類した本棚を作るのだ。「泣きたい夜に」「怒りが止まらないとき」「好きって何かわからないとき」。ジャンルじゃなくて感情で本を分ける。本の新しい見せ方をすれば、普段図書室に来ない人だって興味を持ってくれるはずだ。
企画書を書いた。一人で。
放課後の教室に残って、ルーズリーフに書いた。展示テーマ。レイアウト案。予想来場者数。必要な備品のリスト。A4用紙三枚分。自分の字で一文字ずつていねいに書いた。
誰にも相談しなかった。零にも、紫乃にも、アリアにも。烏丸先生にも。
(だって、自分のことは自分でやる、が身体に染みついてしまってる。誰かに頼ったら、その人がいなくなったときに崩れてしまう。だから一人でやる。いつもそうしてきた。)
展示スペースの空き状況も調べた。集客の見込みも自分なりに計算した。我ながら悪くないと思った。
放課後、生徒会室のドアをノックした。
「はい」
中から返ってきた声は、きっちりとしていた。ドアを開けると、ショートヘアの女子生徒が長机の前に座っていた。制服のリボンが一ミリもずれていない。ブラウスの第一ボタンまできちんと留まっている。手元には手帳とペンと、付箋だらけの資料ファイル。付箋の色が揃っているのが見えた。ピンクが「重要」で黄色が「確認中」で青が「完了」。たぶんそういうルールだ。この人の世界には、色分けされたルールがある。
桧山楓。三年生。生徒会副会長。
「二年の柊木です。文化祭の展示企画の申請を持ってきました」
「ああ、図書室の。聞いています。座ってください」
桧山は企画書を受け取って、一枚目からていねいに目を通し始めた。読む速度が速い。ページをめくる指先が正確で、無駄がなかった。
二枚目の途中で、桧山が顔を上げた。
「文化祭の展示枠は限られてるんです」
「はい」
「申請した団体の実績と集客見込みで優先順位をつけます」
「はい」
「図書室のここ半年の利用者データ、持ってますか?」
止まった。
利用者データ。持っていない。調べたのは展示スペースの空き状況と、貸出記録の概算だけ。半年分の利用者数の推移、月ごとの貸出冊数、曜日別の来室者数。そういうちゃんとした数字は、持ってきていない。頭の中に「減ってる」という感覚はあった。でも感覚は数字じゃない。
「……いえ」
「それがないと、展示の必要性を判断できません。感覚じゃなくて数字で見せてください。他の団体はみんなそうしています」
桧山の声に悪意はなかった。嫌味でもなかった。ただ、事実を言っていた。そしてその事実は正しかった。正しいことが、痛かった。
「企画の内容自体は考えてあるみたいですけど」と桧山が続けた。「申請には根拠が必要です。限られた枠を使うわけですから」
「……はい。すみません。出直します」
「データを揃えてからまた来てください」
企画書を受け取って、生徒会室を出た。ドアを閉めた。廊下に出た。
足が重かった。
データを持っていかなかった。自分の判断ミス。計算は合っていると思った。でも桧山が求めていたのは、詠の「思った」じゃなくて、数字だった。
壁にもたれた。廊下は放課後の静けさで、遠くからバスケ部のボールの音が聞こえた。ドリブルの規則的なリズム。それがやけに胸に響いた。
涙が出た。少しだけ。ほんとうに少しだけ。
(うまくやれると思った。いつもそうだ。一人で動いて、一人で転ぶ。転校するたびに同じことを繰り返してる。誰にも言えないまま、次の転校が来て、リセットされる。でも本当は、リセットされてなんかいない。)
眼鏡を外して、制服の袖で目元を拭いた。かけ直した。大丈夫。泣いたのは十秒くらいだ。誰にも見られていない。
でも、諦めたわけじゃない。
データを揃えればいい。もう一回行けばいい。桧山は「来るな」とは言わなかった。「揃えてからまた来い」と言った。それは扉を閉じる言葉じゃなくて、条件を示す言葉だ。
メロンパンのことを思い出した。今日も売り切れだった。なんだか自分の人生みたいだと思って、少し笑った。笑えたから、たぶんまだ大丈夫。
整理ボランティアの時間。夜の図書室で、詠は正直に言った。
「うまくいかなかった」
零が壁にもたれて腕を組んでいる。紫乃が扇を手に椅子に座っている。ジョバンニが窓際にいる。そしてアリアが、テーブルの上にちょこんと座って、左右色違いの靴下の足をぶらぶらさせながら詠を見ていた。
「文化祭の展示、やりたかったんだけど。生徒会に企画申請出しに行ったら、データがないとだめだって言われた」
「データ?」とアリアが首をかしげた。
「図書室の利用者数とか、貸出の推移とか。数字で必要性を示さないといけなかった」
「数字……」アリアが眉をひそめた。「数字って大事なの?」
「桧山さんにとっては、大事みたい」
「ふうん。なんで?」
出た。アリアの「なんで」。でも今度はいつものアリアだった。純粋な疑問としての「なんで」。不思議の国の住人は、世界のすべてを不思議がる。
「……数字がないと、他の団体と比較できないから」
「なんで比較するの?」
「枠が限られてるから」
「なんで限られてるの?」
「物理法則だよアリア」
「物理法則って誰が決めたの?」
「……この会話、終わりが見えない」
紫乃が扇で口元を隠して笑った。零が「不毛な会話だな」と小さく言ったけれど、口元が少し緩んでいた。
アリアがふいに真顔になった。さっきまでの「なんで」ループとは違う、真剣な目。
「なんで一人で行ったの?」
その質問だけが、不思議の国の論理じゃなかった。現実の論理だった。
「……入り口でつまずいた」と私は言った。
アリアが目を輝かせた。ぱっと表情が変わる。この切り替えの速さは、さすが不思議の国の住人だと思う。
「じゃあ入り口を変えればいいじゃない。出口から入ればいいのよ」
「……意味わからない」
「でしょ? だから面白いんじゃない」
めちゃくちゃだった。論理として成立していない。出口から入ったらそれは入り口だし、入り口を変えたら出口も変わる。そもそも何の話をしているのかわからない。
でも、なぜか笑えた。
声に出して笑ったのは、この学校に来てから何回目だろう。片手で数えられるくらいだと思う。昼の学校では笑えないのに、夜の図書室でなら笑える。アリアのめちゃくちゃな論理が、詠のめちゃくちゃにこんがらがった気持ちを、なぜかほどいてくれる。意味はわからないのに、気持ちだけが軽くなる。不思議の国ってそういうものかもしれない。
紫乃が扇で口元を隠しながら微笑んだ。
「出口から入る、というのは雅ですね。平安の人々もそのように恋をしたものです。裏口から忍んで」
「恋の話してないです紫乃さん」
「あら、そうでしたか」
絶対わざとだ。千年生きた人の「わざと」は巧妙すぎて証拠が残らない。




