第4話「アリアは、なんで? が止まらない」 Part 1
五月。教室の空気が、文化祭の話題で浮き足立っていた。
ホームルームで担任が「そろそろクラスの出し物を決めましょう」と言った途端、教室のあちこちから声が上がった。
「お化け屋敷やりたくない?」
「いいね! てかうちのクラス器用な人多いし」
「喫茶店のほうがラクじゃない? 衣装もかわいいし」
ざわめきの中、前の席の女子がくるりと振り返った。
「柊木さんは? なんかやりたいことある?」
一瞬で、教室中の視線がこちらに集まった気がした。転校してきてまだ二か月。名前は覚えてもらえたけれど、詠はまだ「転校生」というラベルの中にいる。教室の地図にピンを刺してもらえたけれど、ピンの色はまだ決まっていない。そんな感じ。
「……なんでもいいです」
口からこぼれたのは、いつもの言葉だった。
(「図書室の展示がしたい」。言えなかった。言ったらどうなるかわからない。「えー、図書室?」って空気になるかもしれない。ならないかもしれない。でもその判断ができないから、黙る。いつもそうだ。)
前の席の女子は「そっかー」と軽く笑って、隣の子との話に戻っていった。詠はシャーペンの先で、ノートの端に小さな星を描いた。描いてから、消した。消すときに隣の席がちらっと見えた。木野瀬莉子の席。莉子はノートに何か書き込んでいたけれど、詠とは目が合わなかった。先週、ポップのことで莉子に冷たくしてしまったことを思い出して、胸のあたりがちくりとした。
昼休み。購買に行ったらメロンパンだけが売り切れだった。もはや日常。メロンパンの売り切れ速度だけは全国どこの学校でも変わらないんじゃないかと思う。仕方なくカレーパンを買った。食べた後は図書室へ直行。図書室の昼休みだけは、教室の喧噪から離れて息ができる時間だった。
放課後、図書室に向かう廊下の窓から、夕焼けが見えた。オレンジ色の光が床に長い影を作っている。この時間帯の学校は好きだ。人が減って、建物が静かに息をしている感じがするから。階段を降りるたびに靴音がやけに響く。部活動の声が遠くから聞こえるけれど、それも詠には関係のない音だ。
図書室のドアを開けた瞬間、空気が違うことに気づいた。
いつもなら閉館間際の図書室には、静かだけれどどこか穏やかな気配がある。書人たちが目覚める前の、本がまどろんでいる時間。でも今日はなんだか重かった。空気に粘度があるみたいで、息を吸うと肺の中に沈むものがあった。
カウンターの奥で整理ボランティアの仕事を始める。返却された本を棚に戻しながら、ふと目に留まった。
『不思議の国のアリス』の背表紙の色が、いつもより淡い。
気のせいだと思った。でも、隣の『源氏物語』の古い版も、なんだか表紙のツヤがなくなっている。さらに奥の棚を見ると、『人間失格』のカバーの端が少しだけ色褪せて見えた。そして一番端の『銀河鉄道の夜』は、前からだけど埃をかぶっていた。
「最近、図書室に来る人が減ってる」
詠は独り言のようにつぶやいた。カウンターの貸出記録ファイルを開く。四月は新学期の勢いで貸出がそこそこあった。でも五月に入ってからは右肩下がりだ。先週なんか、一日の貸出数が三冊の日があった。三冊。数百冊の蔵書の中から、たったの三冊。
前はもっといたのに。四月の最初の週はまだましだった。
閉館時間が過ぎて、最後の生徒が出ていく。烏丸先生が「あとはお願いね」と言ってカーディガンのポケットに文庫本を押し込みながら帰っていった。いつもの穏やかな笑顔。でも先生も、最近の貸出数は気になっているはずだ。
蛍光灯が半分消えて、図書室が薄暗くなる。
そして、本棚が光った。
最初に出てきたのはアリアだった。いつもなら「わー、詠だ! 今日はお茶会する?」と飛びついてくるのに、今日はエプロンドレスの裾をぎゅっと握ったまま、本棚の横に立っていた。靴下の色が左右で違うのはいつものことだけど今日は色が薄い。パステルイエローとパステルブルー。先週はもっとはっきりしたレモン色とスカイブルーだったはずだ。
次に紫乃が現れた。扇を口元に当てているけれど、持つ手がだるそうに見える。いつもの優雅さの中に、ほんの少し疲れの影が混じっている。深紫の重ね着が、今日はどこか色味がくすんでいるような。
零はいつものくたびれた白シャツで壁にもたれていた。でも目の下に薄い影がある。前髪が目にかかっていて、表情が読みにくい。いつも以上に。
最後に、ジョバンニが窓際に座っていた。窓枠に背をもたれて、うつむいている。星を見るために顔を上げることすら、しんどそうだった。泥のついた黒いコートの裾が、いつもよりくたびれて見える。
「……みんな、元気ない?」
詠の声に誰も答えなかった。その沈黙がいつもと違った。いつもの沈黙は「別に」とか「うるさい」の前の溜めだけど、今日のは違う。答えたくないんじゃなくて、答える力が足りないみたいな沈黙。
アリアが顔を上げた。金髪のショートボブが揺れた。いつものきらきらした目が、今日は静かに光っていた。お茶会もなんでも裁判も始まらない。それだけで、何かが違うとわかった。
「大事な話がある」
アリアがそう言ったとき空気が変わった。紫乃が扇を下ろした。零が壁から背中を離した。ジョバンニだけが窓際でうつむいたままだったけれど、耳はこちらに向いていた。
「みんな元気がない。私もちょっとだるい。このままだと」
アリアが言葉を切った。いつも「なんで?」を連発するアリアが、自分の問いを怖がっているみたいだった。
「図書室に人が来なくなったら、私たちみんなどうなるの?」
紫乃が静かに答えた。
「書人の消滅は個々の貸出数で決まります。けれど、図書室全体が忘れられれば……全員が緩やかに弱っていきます」
わかっていたはずだった。最初の夜に紫乃から聞いたルール。借りられなくなれば消える。でも「全員が弱る」という言葉は、ルールの外側にある現実だった。ルールは理屈だけど、目の前で色が薄くなっていくアリアの靴下は理屈じゃない。
アリアが詠を見た。まっすぐに。あの小さな体のどこにこんな視線が入っているんだろうと思うくらい、強い目だった。
「詠、なんで黙ってるの。関係ないって思ってない? 『どうせ転校する』って」
心臓を掴まれた気がした。アリアの言葉が、教室で前の席の女子に「なんかやりたいことある?」と聞かれたときと重なった。あのとき詠は「なんでもいいです」と逃げた。今また、逃げようとしている。
「……でも私は人間だし、どうせ転校……」
「転校するから関係ないの?」
アリアの声が、いつもと違った。ふざけていない。裁判ごっこの「有罪!」とも、お茶会の「わーい!」とも違う、本気の声だった。
「じゃあ今ここにいる意味は? なんで毎日来るの? なんで帰らないの?」
なんで。なんで。なんで。
アリアの「なんで」は、不思議の国の論理みたいにめちゃくちゃなはずなのに、今日は全部が正確に詠の胸を突いてくる。不思議の国の住人が現実を切るとき、その刃はまっすぐだ。
答えられなかった。
だって、答えを知らないから。なんで毎日ここに来るのか。なんで帰りたくないのか。本当は知っているのに、言葉にすると壊れてしまいそうで。
長い沈黙のあと、詠は息を吸った。
「わかった。なんとかする」




