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残滓の違和感

 律が帰ったのは、九時を過ぎたころだった。


 書類を鞄に入れて、椅子を引いて、「お疲れ様でした」と言った。背筋の伸びた、きっちりした声だった。男は目を閉じたまま、短く「ああ」とだけ返した。ドアが閉まる音がした。足音が廊下を遠ざかっていった。


 静かになった。


 男はしばらくそのままでいた。目を閉じて、椅子に深く沈み込んで。フロアの喧騒はとっくに収まっていて、廊下にも人の気配がない。コーヒーメーカーのランプだけが、変わらずオレンジ色に灯っていた。


 男はゆっくりと目を開けて、ポケットに手を入れた。タバコを取り出して、口にくわえて、ライターで火をつけた。煙を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。煙が薄暗い部屋の中に広がって、ゆっくりと消えていった。


 窓の外を見た。


 夜の街が広がっていた。ビルの明かりが遠くに見える。車のライトが流れていく。雨が降り始めていた。窓ガラスに細かい水滴がついて、外の光がにじんで見えた。男はそれを、特に何かを考えるわけでもなく、ただ見ていた。


 タバコを一本吸い終えるころ、頭の中に今日の現場が戻ってきた。


 残滓を食べたときのことだ。


 フラッシュバックはいつも同じだ。一瞬だけ、断片だけ、それだけが見える。暗闇の中に火が上がる。人影がある。異能の光が走る。それで終わる。顔は見えない。声も聞こえない。感情もわからない。ただ、犯行の瞬間の光景だけが、数秒間だけ頭の中に映る。


 今日もそうだった。


 暗闇の中で火が上がった。人影があった。異能の光が走った。それだけのはずだった。


 男は二本目のタバコに火をつけた。煙を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。


 ただ、何かが引っかかっていた。


 フラッシュバックを思い返すたびに、同じ場所で引っかかる。火が上がった瞬間ではない。異能の光でもない。その前か、後か、あるいはその瞬間と同時か。人影の動きが、引っかかっていた。


 火をつけようとしている動きではなかった。


 男は煙を吐きながら、そのことを考えた。放火をするとき、人間はどう動くのか。標的に向かって異能を使う。それだけだ。前傾みになって、腕を伸ばして、あるいは体全体を使って。攻撃的な動きになる。前に向かう動きになる。


 でも、あの人影の動きは違った。


 前ではなく、横だった。いや、横というより、斜め。何かに向かっているというより、何かを避けているような。あるいは、何かを守ろうとしているような。


 うまく言葉にならなかった。


 見えたのは一瞬だけだ。断片だけだ。その断片の中で、人影がどう動いていたか。それを言語化しようとすると、するりと逃げていく。確かに何かを感じたのに、それが何なのかを掴もうとすると、もう消えている。


 男はタバコを灰皿に押し付けた。


 三本目には手を伸ばさなかった。代わりに、ポケットからキャラメルを取り出した。包みを外して、口に入れた。甘い味が広がった。現場で残滓を食べたときの、あの独特の後味が、まだどこかに残っている気がした。キャラメルを噛みながら、男はもう一度窓の外を見た。


 雨が強くなっていた。


 水滴が窓ガラスを伝って流れていく。外の光がさらににじんで、街の輪郭が曖昧になっていた。


 放火の動機が愉快犯だとすれば、あの動きは説明がつかない。愉快犯なら、もっと単純な動きをするはずだ。標的に向かって、使って、逃げる。それだけだ。あんな、何かを必死にやろうとしているような、切迫した動きにはならない。


 でも、愉快犯ではないとしたら、何なのか。


 そこで思考が止まった。情報が足りない。断片だけでは、何も言えない。あの動きが何を意味するのかを判断するには、もっと何かが必要だ。もう一つの現場の残滓でも食えば、少し見えてくるかもしれない。あるいは、四件目が出れば。


 男はキャラメルを噛み終えて、包みをゴミ箱に捨てた。


 律のことを、少し考えた。


 今日一日、あの新人は動き続けていた。現場を歩き回って、メモを取って、鑑識に話しかけて、車の中では考察を話し続けた。焦っている、と思った。でも、焦りの中身は悪くなかった。情報の整理は速い。論理の組み立ては筋が通っている。異能犯罪を許さないという気持ちが、全体から出ていた。


 だから、余計に危ういと思った。


 焦りと正義感が混ざると、人は間違える。確信を持ちすぎると、見えなくなるものが出てくる。男はそれを知っていた。知っていたから、焦るなと言った。でも、伝わったかどうかはわからなかった。たぶん、伝わっていない。


 伝える気があったのかどうかも、男自身よくわからなかった。


 窓の外の雨を、しばらく見ていた。


 人影の動きが、また頭の中に浮かんだ。あの切迫した動き。火をつけようとしているのではなく、何かを必死にやろうとしている動き。それが何なのか、言葉にならないまま、ただそこにあった。


 男は電気のスイッチに手を伸ばした。


「……まあ」


 誰に向けるでもなく、呟いた。それだけだった。


 電気を消した。部屋が暗くなった。コーヒーメーカーのオレンジ色のランプだけが、暗闇の中でぼんやりと灯っていた。男はそれを見るともなく見ながら、椅子に深く沈み込んだ。


 雨の音だけが、窓の外から聞こえていた。

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