食い違い
鑑識の報告が上がってきたのは、現場に入って三十分ほど経ったころだった。
担当者が律のところに来て、手元のタブレットを見せながら説明した。残滓の量と分布から、異能の発動回数がある程度特定できるという。今回の現場では、三箇所に残滓が集中していた。それぞれの位置と量から、発動の方向と順序が推測できる。一番多く残滓が積もっている場所が、最初に異能を使った地点だろうとのことだった。
律は担当者の説明を手帳に書き留めながら、頭の中で情報を整理した。三箇所。発動回数は少なくとも三回。方向は倉庫の中央から外壁に向かって。つまり、犯人は倉庫の中央付近に立って、外壁に向かって異能を使った。逃走経路は正面扉か、あるいは外壁の割れた窓か。
「これだけ情報があれば、犯人像を絞れます」
律は手帳から顔を上げて言った。担当者ではなく、少し離れたところに立っている男に向かって。「発動位置から身長の推定もできるかもしれません。三件の現場データを重ねれば、行動パターンも見えてくる。早急に過去二件の残滓データと照合して」
「焦るな」
男が言った。担当者の方を向いたまま、律の方を向かずに。短い言葉だった。それだけだった。
律は手帳を持ったまま、男を見た。
「焦っているわけではありません。情報が揃ってきたから、次の手を打つべきだと言っているんです」
「同じことだ」
「違います。情報に基づいて動くことと、焦って動くことは違います」
男はそこで初めて律の方を向いた。眠そうな目が、律を見た。何か言うのかと思ったが、何も言わなかった。また担当者の方を向いた。
律は息を吸って、続けた。
「三件も起きているんですよ。一件目から二件目まで二日、二件目から三件目まで三日です。間隔が変わっている。次がいつ起きるかわからない。早く動かないと」
「焦って動いて、何かいいことあったか」
男が言った。律の方を向かないまま。低い声で、静かに。
律は言葉に詰まった。
焦って動いて、何かいいことあったか。それは律に向けた言葉なのか。それとも、誰か別の誰かに向けた言葉なのか。律にはわからなかった。ただ、言葉が胸のあたりで引っかかった。反論しようとして、うまく言葉が出なかった。
男はそれ以上何も言わなかった。担当者に短く何かを告げて、倉庫の外に向かって歩き出した。律はその背中を見ていた。追いかけようとして、やめた。今追いかけても、また同じような会話になるだけだという気がした。
律は手帳に視線を落とした。
書き留めた情報が並んでいる。発動回数、発動位置、方向、推定される逃走経路。これだけあれば、次の手が打てるはずだ。そう思っていた。でも男は焦るなと言った。焦って動いて何かいいことあったかと言った。
律にはその言葉の意味がわからなかった。
車に戻ったのは、それから十五分後だった。
鑑識の担当者との確認をすべて終えて、必要なデータを共有してもらって、現場を後にした。男はすでに助手席に座っていた。目を閉じていた。律は運転席に乗り込んで、エンジンをかけた。
車が動き出した。
律は運転しながら、口を開いた。黙っていられなかった。頭の中で情報が渦を巻いていて、整理するには声に出す必要があった。
「今回の現場で、いくつかわかったことがあります。残滓の分布から、犯人は倉庫の中央付近から異能を発動させていた。発動回数は少なくとも三回。外壁に向けて段階的に火を当てていったと考えられます。一件目、二件目も同じパターンだとすれば、犯人には一定の手順がある。衝動的な犯行ではなく、計画的な可能性が高い」
男は目を閉じたまま、何も言わなかった。
「計画的であれば、次の犯行場所も何らかの基準で選んでいるはずです。一件目と二件目は渋谷区、三件目は港区。この移動に意味があるのか、それとも単純に都合のいい場所を選んでいるだけなのか。もし前者であれば、次の犯行場所が予測できる可能性があります」
男は目を閉じたまま、何も言わなかった。
「異能の種類については、鑑識の見立て通り火を操る系統で間違いないと思います。ただ、残滓の量が少なかった。強力な異能ではないかもしれない。あるいは、意図的に出力を抑えているのか。いずれにしても、異能の強さに関係なく、三件とも死傷者を出していない。これは偶然ではないと思います」
信号で止まった。律は助手席をちらりと見た。目を閉じたまま、変わらない姿勢でいた。
「聞いていますか」
「聞いてる」
また同じ答えだった。律は視線を前に戻した。信号が青になって、車が動き出す。
「では、意見は」
「……まだない」
律は息を吐いた。まだない。それだけだった。これだけ情報を並べて、考察を話して、まだない。どうして意見が出ないのか。何が足りないというのか。
「なぜですか」
「なぜって」
「これだけ情報が揃っているのに、なぜ意見が出ないんですか。愉快犯の可能性が高いと先ほど同意していましたよね。であれば、次の手を考えるべきではないですか。容疑者の絞り込みとか、次の犯行場所の予測とか」
「同意した覚えはない」
律は一瞬、返答に詰まった。
「そうかもな、と言っていたじゃないですか」
「そうかもな、と言った。同意とは違う」
律はハンドルを握ったまま、前を向いていた。そうかもな、と同意は違う。言われてみれば、確かに違う。でも、あの言い方は同意しているように聞こえた。少なくとも、律にはそう聞こえた。
「では、愉快犯ではないと思っているんですか」
「わからない、と言ってる」
「わからないから動かない、ということですか」
「わからないのに動いたら、間違える」
律は何も言えなかった。
間違えたら、どうなるのか。その言葉の続きを、男は言わなかった。でも、何か続きがある気がした。間違えたら、誰かが傷つく。間違えたら、取り返しがつかなくなる。そういう経験が、この男の中にあるのかもしれない。
律にはわからなかった。
車内に沈黙が戻った。律は運転しながら、頭の中で今日一日を振り返っていた。配属初日。現場に出た。能力を見た。話を聞いた。でも、何も前に進んだ気がしなかった。
男はまた目を閉じていた。
律の不満は、言葉にならないまま、胸の中に積み上がっていった。




