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残滓を喰う

 ニブが動いたのは、律が現場を一周し終えたころだった。


 それまでずっと同じ場所に立っていた男が、ふいに歩き出した。ポケットに手を突っ込んだまま、倉庫の正面扉に向かって。鑑識の担当者が「中はまだ確認中ですが」と声をかけたが、男は特に返事をしないまま扉をくぐった。律はその背中を見て、一瞬迷って、追いかけた。


 倉庫の中は薄暗かった。外から差し込む街灯の光と、鑑識が設置した照明が、雑然とした内部を照らしていた。木材の焦げた匂いが外よりも濃い。床はコンクリートで、ところどころ黒ずんでいた。


 男はゆっくりと倉庫の中を歩いた。律はその後を追いながら、内部の状況を手帳に書き込んでいった。棚が倒れている。木箱がいくつか焦げている。でも、全焼には程遠い。火はここで止まった。なぜここで止まったのか。


 男が足を止めた。


 倉庫のほぼ中央だった。床を見ていた。律は近づいて、男の視線の先を追った。


 コンクリートの床に、白っぽい粉が薄く積もっている箇所があった。ほんのわずかだった。注意して見なければ、砂埃と見分けがつかないくらいの量だ。でも、確かにそこにあった。


 男がゆっくりとしゃがみ込んだ。大きな体が、膝をついて床に近づいていく。律はその動作を見ていた。何をするのだろう、と思った。


 男が右手の人差し指を伸ばして、白い粉に触れた。指先に薄く粉がついた。男はそれを、そのまま口に入れた。


「何をしているんですか」


 律は思わず声を上げた。床に落ちていたものを口に入れた。それだけで、反射的に声が出た。衛生的な問題以前に、現場の物に素手で触れること自体、まずいのではないか。


 男は答えなかった。


 律はもう一度声をかけようとして、やめた。


 男の目が、変わっていた。


 焦点が、消えていた。さっきまでそこにあった、眠そうな、でも確かに何かを見ていた目が、どこも見ていない目になっていた。虚空を見ているというより、別の場所を見ているような。体はここにあるのに、意識だけがどこか別のところへ行ってしまったような、そういう目だった。


 数秒間、男は動かなかった。


 律は声をかけられなかった。かけていいのかどうかわからなかった。何が起きているのかわからなかった。ただ、男の目が普通ではないことだけはわかった。


 暗闇の中で、火が上がった。


 一瞬だけ。赤と橙が混ざり合った光が、暗闇を切り裂いた。熱はない。音もない。ただ、光だけがある。人影が見えた。輪郭だけだった。顔は見えない。背格好もはっきりしない。ただ、そこに誰かがいた。その誰かの手から、異能の光が走った。青白い光が一瞬だけ迸って、そして消えた。それだけだった。暗闇が戻って、何もなくなった。


 男が立ち上がった。


 ゆっくりと、膝を伸ばして。立ち上がりながら、ポケットに手を入れた。キャラメルを一つ取り出して、包みを外して、口に放り込んだ。包みをポケットに戻した。それだけだった。


 律は男を見ていた。


「今、何をしたんですか」


 男はキャラメルを噛みながら、律を見た。何か言おうとしているのか、いないのか、判断がつかない間があった。


「説明してください」


 律は続けた。声が少し強くなった。現場で床のものを口に入れた。そして数秒間、意識が飛んだような状態になった。それだけで、律には十分すぎる疑問だった。


「……残滓ざんさい


 男が言った。


「残滓、というのは」


「異能を使うと、痕跡が残る。魔力が反応して固まったやつだ。あの白い粉がそれだ」


 律は男が指を入れた場所を見た。白い粉。さっきまでそこにあったものが、わずかに減っている。男が指に取った分だけ。


「それを、食べたんですか」


「食べると、見える」


「見える、というのは」


「犯行の瞬間だけ。異能を使った、その一瞬だけ」


 律は手帳を開いた。メモを取ろうとして、まず男の言葉を整理しようとした。異能を使うと残滓が残る。その残滓を食べると、犯行の瞬間が見える。


「どの程度見えるんですか。犯人の顔は?異能の種類は?犯行の動機は?」


「顔は見えない。感情も見えない。異能を使った瞬間の光景だけだ。何秒かの、断片だけ」


 律は手帳にメモを取った。それだけ、と男は言った。顔が見えない。感情が見えない。犯行の瞬間の光景だけ。


「それだけですか」


「それだけだ」


「もっと情報が取れないんですか。犯人の特定につながる何かとか、異能の詳細とか」


「取れない」


「でも、犯行の瞬間が見えるなら、現場の状況はわかるはずです。犯人がどこから来たか、どこへ向かったか、そういったことも」


「一瞬だけだ。その前も後もない。光景だけがある、それだけだ」


 律は手帳から顔を上げた。男はキャラメルを噛み終えて、また窓の外の方を向いていた。説明は終わった、という顔だった。


「……それで、今回は何が見えたんですか」


「火が上がる瞬間。人影。異能の光」


「人影というのは、犯人ですか」


「そうだろうな」


「特徴は」


「ない。輪郭だけだ」


 律は息を吐いた。犯行の瞬間が見える能力があって、でも顔も感情も特徴も見えない。断片だけが見える。それだけだ、と男は言った。それ以上でも以下でもない、とでも言いたそうな顔で。


「……それだけですか」


「それだけだ」


 男がポケットにキャラメルの包みを入れ直した。それで終わり、ということなのだろう。律はしばらく男を見ていた。


 役に立たない能力だとは思わなかった。犯行の瞬間が見える、それは確かに有用だ。でも、制約が多すぎる。顔が見えない。感情が見えない。断片しか見えない。この能力で、どうやって犯人を特定するのか。


 律は視線を、白い粉のあった場所に落とした。男が指で取った分だけ、粉が減っていた。あれが残滓だ。異能の痕跡。それを食べることで、犯行の瞬間を見る。


 この捜査室が、特殊と呼ばれる理由が少しだけわかった気がした。


 男は倉庫の中を、またゆっくりと歩き始めていた。ポケットに手を突っ込んだまま、特に何かを確認するわけでもなく、ただ歩いていた。律はその背中を見ながら、手帳を閉じた。


 わからないことが、また増えた。


 でも、一つだけわかったことがあった。この男は、律が思っていたよりも、ずっと特殊な人間だということだ。それが良いことなのか悪いことなのか、律にはまだ判断できなかった。

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