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第三報

 内線が鳴ったのは、午後の三時過ぎだった。


 律は書類から顔を上げた。デスクに積まれていたファイルを一つずつ確認しながら、この部屋がどういう案件を扱ってきたのかを把握しようとしていたところだった。異能犯罪対策課に配属されてまだ半日も経っていない。覚えることが多すぎる。でも、焦っても仕方がない。一つずつだ。そう思いながらファイルを開いていた。


 向かいの男は相変わらず目を閉じていた。最初に見たときから、ほとんど姿勢が変わっていない。本当に寝ているのか、起きているのか。律にはまだ判断がつかなかった。コーヒーメーカーのランプだけが、変わらずオレンジ色に灯っていた。


 内線を取ったのは律だった。男が動く気配がなかったから。


「紅村です」


「霧島です。連続放火事件の三件目が出ました。現場は港区の倉庫街です。詳細は向かいながら共有します。すぐ動けますか」


「はい、すぐに」


 受話器を置いて、律は立ち上がった。椅子が鳴った。上着を手に取って、手帳を掴んで、男の方を見た。目を閉じたままだった。


「喰島さん」


 反応がない。


「喰島さん、現場です。連続放火事件の三件目が出ました」


 男がゆっくりと目を開けた。律を見た。それから、天井を一度だけ見上げた。何かを確認するように。あるいは、気合を入れるように。どちらでもなさそうだった。ただ、天井を見た。それだけだった。


 大きな体がゆっくりと動いて、椅子から立ち上がる。思っていたより時間がかかった。この男は動作が遅い。いや、遅いというより、急いでいないのだろう。デスクの端に置いてあったジャケットを手に取って、片腕を通して、もう片腕を通して、ボタンに手をかけた。一番下のボタンを指でつまんで、ボタン穴に通そうとして、やめた。ジャケットの前を開けたまま、男は律を見た。


「……行くか」


 それだけ言って、男は歩き出した。律はその後を追いながら、車のキーを探した。


 駐車場に出ると、空は曇っていた。夕方前の光が雲に遮られて、どこか薄暗い。風が少しあった。倉庫街に向かうには時間がかかるかもしれない。律はナビで経路を確認しながら、車に近づいた。助手席のドアを開けようとして、男がすでに助手席に向かっていることに気づいた。


「あの、私が運転します」


「そうしてくれ」


 男は何でもないように言って、助手席に乗り込んだ。大きな体が助手席に収まる。シートが沈んだ。律は運転席に座って、エンジンをかけた。ナビに現場の住所を入力する。霧島から送られてきたメッセージを確認した。港区の倉庫街、建物は無人、異能使用の痕跡あり、通報者は近隣住民、通報時刻は午後二時四十分。


 車が動き出した。


 律は運転しながら、頭の中で情報を整理した。連続放火事件、三件目。一件目と二件目はいずれも渋谷区だった。今回は港区だ。エリアが変わった。これは何を意味するのか。移動しているのか。それとも別の何かがあるのか。


 助手席の男は目を閉じていた。乗り込んだ瞬間からそうだった。シートに体を預けて、シートベルトだけはしている。それ以外は動かない。眠っているのかもしれない。でも、眠っているとしたら現場に着いてからどうするつもりなのか。


 律は信号で止まりながら、口を開いた。黙っていても仕方がない。情報を共有するのは当然のことだ。


「連続放火事件ですが、これで三件目になります。整理させてください」


 男は何も言わなかった。続けろということなのか、あるいは聞いていないのか。律はどちらでも構わないと思って、続けた。


「一件目は先週の火曜日、深夜二時頃です。渋谷区の廃ビル。死傷者なし、建物への被害は外壁の焦げのみで軽微でした。二件目は木曜日の深夜、渋谷区の空き家。こちらも死傷者なし、被害は軽微です。どちらの現場にも異能使用の痕跡が残っていました。鑑識の見立てでは、火を操る系統の異能とのことです」


 男は目を閉じたまま、何も言わなかった。聞いているのか聞いていないのか、相変わらずわからない。


「今回の三件目は港区です。一件目、二件目から場所が大きく離れています。渋谷から港区への移動、何か意図があるのか、あるいは単純に活動範囲が広いのか。被害状況はまだわかりませんが、通報内容からすると今回も大きな被害はなさそうです」


 信号が赤になった。律は止まって、助手席をちらりと見た。男は目を閉じたまま、変わらない姿勢でいた。


「聞いていますか」


「聞いてる」


 また同じ答えだった。律は視線を前に戻した。信号が青になって、車が動き出す。


 しばらく沈黙が続いた。律はもう少し話そうとして、やめた。情報は伝えた。男が何も言わないなら、それ以上続けても意味がない。現場を見てから判断すればいい。それでいい。そう思いながら、ハンドルを握った。


 男が口を開いたのは、それから数分後だった。


「愉快犯だと思うか」


 目を閉じたまま、言った。唐突だった。律は少しだけ考えて、答えた。


「そう判断するのが妥当かと思います。三件とも死傷者を出していません。深夜の無人建物を狙っている。異能を使っているにもかかわらず被害を最小限にとどめている。これは偶然ではなく、意図的に被害を抑えているように見えます。目立ちたい、騒がせたい、でも深刻な結果は望んでいない。愉快犯の典型的な行動パターンと一致します」


「……そうかもな」


 男が言った。短い言葉だった。律にはそれが同意に聞こえた。自分の見立てを肯定してもらえた、という感覚があった。


 でも、男の顔は律には見えなかった。


 目を閉じたまま、窓の方へわずかに顔を向けていた。そうかもな、という言葉の後に、短い間があった。その間の意味を、律は考えなかった。同意してくれた、それだけを受け取った。


 気づかなかった。


 男の口から出た言葉が同意ではなく、保留だったことに。そうかもしれない、でもそうじゃないかもしれない、という両方を含んだ言葉だったことに。男の中で何かが引っかかっていることに、律はまったく気づかなかった。


 現場に着いたのは、それから十五分後だった。


 車を止めて、律は外に出た。夜に向かう前の、中途半端な時間帯の空気が冷たかった。倉庫街の一角に、規制線が張られていた。野次馬が数人、遠巻きに眺めている。鑑識の車が一台、パトカーが二台。焦げた匂いが風に乗って流れてきた。建物の一部が黒く変色していた。


 律は手帳を開いて、現場を見渡した。建物は古い倉庫だった。外壁の一部が黒く焦げている。窓が一枚、割れていた。被害はそこだけのように見えた。


 また、最小限だった。


 また、死傷者はいない。


 また、異能の痕跡が残っているはずだ。


 律は規制線に近づきながら、鑑識の担当者に声をかけようとした。そのとき、後ろから足音がした。


 男が車から降りてきた。ゆっくりとした足取りで、倉庫を見た。特に表情は変わらなかった。ポケットに両手を突っ込んで、そのまま倉庫の正面に立った。律の隣ではなく、少しだけ前に出た位置で。


 男は倉庫を見ていた。


 何を見ているのか、律にはわからなかった。焦げた外壁を見ているのか、割れた窓を見ているのか、あるいはそれ以外の何かを見ているのか。律の目には見えない何かが、そこにあるのだろうか。


 男はそのまま、しばらく動かなかった。

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