五件目の現場
五件目の現場へ向かったのは、その日の夜だった。
鑑識から現場の準備が整ったという連絡が入ったのが夕方で、律と男は日が落ちてから車に乗った。律が運転して、男が助手席で目を閉じた。いつもと同じだった。ただ、今日は律も何も話さなかった。話す気になれなかったというより、話す必要がなかった。朝に男が資料を渡してきたこと、愉快犯じゃないかもしれないと言ったこと、それだけで今日は十分だった気がした。
車が動き出してから、しばらく沈黙が続いた。助手席の男は目を閉じたまま、シートに体を預けていた。律はハンドルを握りながら、街灯の流れる窓の外を見ていた。渋谷区の外れに向かうにつれて、道が細くなった。人の気配が薄くなった。
廃工場は、古い住宅街の隙間に建っていた。
外から見ると、ただの廃墟だった。錆びた看板が斜めに傾いていて、フェンスの一部が倒れていた。規制線が張られていて、鑑識の車とパトカーが二台止まっていた。律は車を止めて、外に出た。夜の空気が冷たかった。焦げた匂いが、風に乗ってかすかに流れてきた。
中に入ると、広さに驚いた。
かつて何かを製造していたのだろう、天井が高く、柱が等間隔に並んでいた。壁際には錆びた機械が残っていて、床はコンクリートが剥がれかけていた。窓はほとんどが割れていて、夜風が吹き込んでいた。焦げた匂いが、広い空間の中に薄く漂っていた。
前の四件と比べると、現場が格段に広かった。それだけ、残滓も広範囲に点在していた。鑑識が照明をいくつか設置して作業していたが、隅々まで光が届いていない。暗い場所がいくつもあった。
律は手帳を開いて、現場を歩き回った。残滓の位置を確認しながら、鑑識の担当者に声をかけて情報を集めた。今回は残滓が四箇所に分かれていた。前回より多い。発動回数が増えている。律はそれを手帳に書き込みながら、頭の中で情報を整理した。一件目二回、二件目二回、三件目三回、四件目三回、五件目四回。回数が増え続けている。慣れてきているのか。あるいは、別の何かが変わってきているのか。
男はいつものように、あまり動かなかった。
廃工場の中央付近に立って、周囲を見回していた。ポケットに手を突っ込んで、特に何かをするわけでもなく、ただそこにいた。鑑識の担当者が男に気づいて、軽く会釈した。男は小さく頷いた。それだけだった。
律はその姿を横目で確認しながら、作業を続けた。
現場の奥の方まで歩いた。機械の残骸が積み上がっている場所があった。その近くに、残滓の一箇所があった。他の箇所より量が多かった。律は鑑識の担当者に声をかけて、この箇所の詳細を確認した。担当者によると、ここが最初の発動地点だろうとのことだった。量が一番多い。犯人はここから始めた。
律は手帳にメモを書き込みながら、廃工場の広さを改めて見渡した。
なぜ今回は廃工場だったのか。前の四件は、もっと小さな建物だった。廃ビル、空き家、倉庫。でも今回は廃工場だ。広さが違う。なぜここを選んだのか。
考えながら歩いていると、男が動いた。
床の一点に向かって、ゆっくりと歩いていった。律は気づいて、目で追った。男が立ち止まったのは、残滓が集まっている箇所の一つだった。床を見て、しゃがみ込んだ。大きな体が、膝をついて床に近づいていく。
指を伸ばした。白い粉に触れた。口に入れた。
律は男のそばに近づいて、立って待った。声はかけなかった。かけない方がいいことは、もうわかっていた。男の目から、焦点が消えた瞬間を、律は静かに見ていた。
どこも見ていない目になった。体はここにあるのに、意識だけが別のどこかへ行ってしまったような。律はそれを見ながら、静かに待った。鑑識の担当者が作業を続けている音が、遠くに聞こえていた。夜風が吹き込んで、廃工場の中を通り抜けていった。
廃工場の中に、暗闇があった。
その中で、火が上がった。赤と橙が混ざり合った光が、一瞬だけ暗闇を切り裂いた。人影が見えた。前回と同じだった。輪郭だけ、顔は見えない、異能の光が走る。
でも、今回は違った。
人影が、二つあった。
一つは火を使っていた。前回も見えた、あの人影だ。でも今回は、その横に、もう一つの人影があった。二つ目の人影は火を使っていなかった。何かを必死にやろうとしていた。前ではなく横に動いていた。あるいは、何かを消そうとしているような動きだった。切迫していた。追い詰められているような、そういう動きだった。火を使っている一つ目の人影とは、まったく違う動きだった。
一瞬だけ、それが見えた。
また暗闇が戻った。
男が立ち上がった。ゆっくりと膝を伸ばして。ポケットからキャラメルを取り出して、包みを外して、口に入れた。律はその動作を見ながら、待った。キャラメルを噛む音が、静かな廃工場の中に小さく響いた。
「今回は何が見えましたか」
男がキャラメルを噛みながら、律を見た。少しの間があった。
「……二人いた」
律は手帳を開いた。
「二人、ですか」
「ああ」
「共犯者がいるということですか」
男は少し間を置いた。
「わからん。ただ、二人いた」
「でも、現場に二人いたということは、一人だけが犯人ということにはならない。少なくとも、もう一人が関与している可能性があります」
「そうかもな」
「空月蒼の共犯者を探しましょう。空月蒼の周辺人物を当たれば、もう一人が浮かび上がるかもしれません。SNSの履歴や、補導時の聴取記録に何か手がかりがあるかもしれない」
律は手帳にメモを書きながら、動こうとした。
「待て」
男が言った。律は止まった。
「二人のうち、どっちが火を使ったかはわかった」
律は男を見た。
「空月蒼、ですね」
異能反応は空月蒼のものと一致している。火を使ったのが空月蒼である可能性は高い。それは最初からわかっていた。
「……そうだな」
男が言った。でも、そこで続けなかった。
律には、また同意に聞こえた。そうだな、空月蒼が火を使った。だから空月蒼が犯人だ。律の中でその論理は一本に繋がっていた。
でも男は、現場をもう一度見回し始めた。
ゆっくりと、廃工場の中を目で追っていた。残滓が点在している箇所を、一つずつ確認するように。律はその目を見た。何かを探している目だった。さっき残滓を食べたときに見えたものを、現場の中に探しているような目だった。
二つ目の人影が、何かを消そうとしていた。
男の頭の中には、まだその動きが残っていた。一つ目の人影が火を使った。二つ目の人影が何かを必死にやろうとしていた。その二つが、この広い廃工場の空気の中のどこかに繋がっているかもしれない。残滓が四箇所に点在している。一つ目の人影が使った痕跡と、二つ目の人影が動いた痕跡が、この四箇所のどこかに混じっているかもしれない。
男はそれを探していた。
律にはそれが見えなかった。
空月蒼が火を使った。共犯者がいる可能性がある。次は共犯者を探す。律の頭の中では、話がそこへ進んでいた。男が何を探しているのか、律にはまだわからなかった。
廃工場の中に、夜風が吹き込んできた。錆びた機械が、かすかな音を立てた。鑑識の担当者が作業を続けていた。男はポケットに手を突っ込んだまま、ゆっくりと現場を見回し続けていた。
律は手帳を閉じて、男の背中を見た。
二人いた。その言葉が、頭の中に残っていた。空月蒼と、もう一人。その二人が、この場所にいた。一人は火を使った。もう一人は何かをしていた。それだけはわかった。
でも、男の目はまだ何かを探していた。
律が見えていないものを、男はまだこの廃工場の中に探し続けていた。夜風が吹くたびに、焦げた匂いが揺れた。鑑識の照明が、広い空間を切り取るように照らしていた。暗い場所がいくつもあった。男の目が、その暗い場所の一つに向いた。
何を見ているのか、律にはわからなかった。
ただ、男がそこに何かを見ていることだけは、わかった。




