仕切り直し
翌朝、特殊捜査室のドアを開けると、男がいた。
律は一瞬、足を止めた。男がいることへの驚きではなかった。男の姿勢が、いつもと違ったからだ。
目が、開いていた。
椅子に座って、デスクの上の資料を見ていた。両腕をテーブルに置いて、資料に視線を落として。眠そうな目はいつもと変わらなかったが、目を開けて何かをしている男を、律は初めて見た気がした。
男は律が入ってきた音に気づいて、顔を上げた。律を見た。それだけだった。また資料に視線を戻した。
律は上着を脱ぎながら、デスクに近づいた。鞄を置いて、椅子を引いた。座ろうとして、止まった。
昨日のことを、謝らなければいけない気がしていた。
帰りのエレベーターから、ずっとそう思っていた。正義のために動こうとしない人間に何がわかるんですか。あの言葉は、言いすぎだった。本音だったとしても、言い方があった。あのタイミングで、あの言葉を選ぶ必要はなかった。
でも、謝り方がわからなかった。
どう切り出せばいいのか。何から謝ればいいのか。謝って、男がどう反応するのか。律には予測がつかなかった。
「……昨日は」
律は口を開いた。それだけ出て、止まった。続きが出てこなかった。言いすぎました、と言おうとした。でも、その言葉が喉のあたりで引っかかった。言いすぎたとは思っているが、言ったことが間違いだとは思っていない。その両方が同時にあって、言葉にならなかった。
「気にしてない」
男が言った。資料から顔を上げないまま。律の言葉が終わる前に、それだけ言った。
律は、拍子抜けした。
怒っているのかと思っていた。少なくとも、昨日の言葉を引きずっているのかと思っていた。帰れ、と言ったのだから、それなりの感情があったはずだ。でも男は、気にしてない、とだけ言った。そのまま資料に視線を戻した。それ以上何も言わなかった。
律はしばらく男を見ていた。
本当に気にしていないのか。それとも、気にしていないふりをしているのか。律には判断がつかなかった。でも、男の顔に昨日の痕跡は見えなかった。いつもと同じ、眠そうな、何を考えているのかわからない顔だった。
律は椅子に座った。
「……ありがとうございます」
謝罪ではなく、礼になった。それが今の律に出せる精一杯だった。男は何も言わなかった。
少しの沈黙があった。
男が資料を手に取って、律の方に向けた。
「五件目が出た」
律は資料を受け取った。昨夜の深夜、五件目の放火が発生していた。場所は渋谷区の廃工場跡。死傷者なし、建物への被害は軽微、異能使用の痕跡あり。通報時刻は深夜一時過ぎ。
「また渋谷区ですか」
「ああ」
律は資料を読みながら、頭の中で五件の現場を並べた。一件目渋谷、二件目渋谷、三件目港、四件目新宿、五件目渋谷。渋谷に戻ってきた。
「地図に落としてみます」
律はデスクの引き出しから地図を取り出した。五件分の現場の住所を確認しながら、一つずつ印をつけていった。男は律の作業を見ていた。何も言わなかった。
五つの印をつけ終えて、律は地図を見た。
最初はばらばらに見えた。渋谷、渋谷、港、新宿、渋谷。エリアが移動していると思っていた。でも、地図の上で見ると、違った。
五つの印が、ある一点を中心に集まっていた。
渋谷区の外れ、廃ビルが集まっている一角。律が空月蒼の出没エリアとして絞り込んでいた場所の近くだった。そこを中心に、半径二キロ以内に五件すべてが収まっていた。港区も、新宿区も、渋谷区の端から見れば、その範囲に入っていた。
「生活圏内の犯行だ」
律は言った。地図から顔を上げた。
犯人はこのエリアに住んでいるか、このエリアをよく知っている。知っている場所で犯行を重ねている。それが、五件の現場の分布から見えてきた。
男がゆっくりと口を開いた。
「愉快犯は目立ちたがる」
律は男を見た。
「範囲を広げる。もっと広い場所で、もっと目立つ場所でやる。それが愉快犯だ」
律は地図を見た。五つの印。半径二キロ。
「では、愉快犯じゃない、ということですか」
「かもな」
また、そうかもな、だった。でも今回は違う重さがあった。今まで男が言ってきた「そうかもな」は、保留の言葉だった。でも今回は、仮説を示した後の「かもな」だった。愉快犯は範囲を広げる、でもこの犯人は広げていない、だから愉快犯じゃないかもしれない。その論理が、言葉の後ろにあった。
律は地図を見ながら、考えた。
愉快犯じゃないとしたら、何なのか。生活圏内で繰り返し放火している。死傷者を出していない。被害を最小限にとどめている。目立ちたいわけではない。でも、やめない。五件も繰り返している。
「何のためにやっているんですか」
律は地図を見たまま言った。男に向けた問いだったが、自分自身への問いでもあった。
「……わからん」
男が言った。わからん、という言葉が、今日は昨日までと少し違う響きを持って聞こえた。知らないのではなく、まだわからない、という響きだった。考えている、ということだった。
律は地図を机の上に広げたまま、男を見た。
男はまた資料に視線を落としていた。眠そうな目が、資料の文字を追っていた。昨日、律が言った言葉を気にしていない、と言った。本当に気にしていないのかどうかは、まだわからなかった。でも、今日の男はいつもより少しだけ、律の方を向いている気がした。資料を渡した。仮説を話した。それだけだったが、それだけで十分だった。
律にとって、初めて男の考えが見えた朝だった。
まだ断片だった。仮説の欠片だった。でも、何もないよりは違った。この男の頭の中で何かが動いている、ということが、今日初めて少しだけ見えた。
律は地図に視線を戻した。
五つの印。半径二キロ。生活圏内。愉快犯ではない可能性。
昨日まで見えていなかったものが、今日は少しだけ見えていた。




