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それぞれの夜

 家に帰ってから、律はしばらく何もできなかった。


 鞄を床に置いて、上着を脱いで、椅子に座った。それだけで止まった。夕飯を作る気にもなれなかった。シャワーを浴びる気にもなれなかった。ただ、椅子に座って、テーブルを見ていた。


 頭の中で、今日のことが繰り返されていた。


 正義のために動こうとしない人間に、何がわかるんですか。


 自分の声が、耳の中で繰り返された。言いすぎた。それはわかっていた。でも、取り消せなかった。取り消したいとも、完全には思っていなかった。言ったことは本音だった。ずっと思っていたことだった。それを、限界が来て、言葉にしてしまっただけだ。


 でも。


 律は左手首に手をやった。時計のベルトに指をかけて、バックルを外した。時計を外して、テーブルの上に置いた。白い文字盤が上を向いた。黒のアラビア数字が、部屋の明かりの下で静かに光っていた。


 お父さんなら、どうしたか。


 その問いが浮かぶたびに、律は自分を叱った。お父さんならどうしたか、なんて考えても意味がない。ここにいるのは自分だ。お父さんではない。お父さんがどうしたかは、もう誰にもわからない。


 それでも、考えてしまった。


 父のことを、律はあまり多く知らない。律が十五歳のとき、父は死んだ。それまでの記憶は、断片的だった。仕事から帰ってくると疲れた顔をしていたこと。でも、律が話しかけると必ず向き合ってくれたこと。正義という言葉を、父は一度も口にしなかった。でも、父が何のために仕事をしているのかは、子どもだった律にもわかった。


 この時計を、父はいつも左手首につけていた。


 律は時計を手に取った。表側を見て、それから裏返した。裏蓋は使い込まれた銀色で、いくつかの傷がついていた。細かい傷だった。どこかにぶつけたのか、何かで擦れたのか。一つ一つの傷に、理由があるはずだった。でも、その理由を律は知らなかった。


 指で、傷をなぞった。


 一つ目の傷。浅くて短い。二つ目の傷。少し深い。三つ目の傷。他より長い。なぞりながら、律は何も考えなかった。考えようとしなかった。ただ、指先で傷の感触を確かめていた。


 この傷がいつついたのか、律には永遠にわからない。


 そのことが、今日は少しだけ痛かった。いつもは気にならなかった。でも今日は、この傷の一つ一つに理由があって、その理由を自分は知らないということが、胸のどこかに刺さった。


 父がこの仕事をしていたとき、どんな顔をしていたのか。どんな言葉を選んでいたのか。行き詰まったとき、どうしていたのか。


 わからなかった。


 わからないまま、律はここにいた。わからないまま、今日も動いて、言いすぎて、部屋を出てきた。


 律は時計をテーブルに戻した。裏蓋が下になるように、そっと置いた。


 窓の外が暗かった。時間を確認しようとして、時計を外したことを思い出した。スマートフォンで確認した。九時を過ぎていた。


 お父さんならどうしたか。


 その問いへの答えは、どこにもなかった。




 特殊捜査室の電気は、まだついていた。


 律が出て行ってから、男はしばらく動かなかった。椅子に深く沈み込んで、テーブルの上に両腕を置いたまま、ドアを見ていた。閉まったドアを。足音が廊下を遠ざかっていって、エレベーターの音がして、それから静かになった。


 男はポケットからタバコを取り出した。口にくわえて、ライターで火をつけた。煙を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。


 窓の外を見た。


 夜の街が広がっていた。雨はやんでいた。濡れたアスファルトに、街灯の光が反射している。車が一台、ゆっくりと通り過ぎた。テールランプの赤が、濡れた路面に伸びて、消えた。


 正義のために動こうとしない人間に、何がわかるんですか。


 律の声が、まだ部屋のどこかに残っているような気がした。


 男は煙を吐きながら、その言葉を頭の中で繰り返した。怒ってはいなかった。反論する気もなかった。ただ、繰り返した。正義のために動こうとしない人間。律はそう言った。間違ってはいなかった。男は正義のために動こうとしていない。仕事だから動いている。それだけだ。律の言った通りだった。


 だから、何も言えなかった。


 帰れ、とだけ言った。それ以外に言える言葉がなかった。反論できなかったから帰れと言ったのか、それとも別の理由があったのか。男自身、よくわからなかった。


 タバコが短くなってきた。男は灰皿に押し付けた。煙が細く立ち上がって、消えた。


 窓の外を見ていた。


 何かを思い出していた。思い出そうとしているのか、思い出したくないのに出てくるのか、それもよくわからなかった。ただ、窓の外を見ていると、いつもそうなった。夜の街を見ていると、いつもそうなった。


 何を思い出しているのかは、言葉にしなかった。


 言葉にする必要がなかった。誰かに話すわけでもない。一人だった。この部屋に、一人だった。いつもそうだった。律が来る前も、律が帰った後も、この部屋には男一人だった。


 タバコをもう一本取り出そうとして、やめた。


 代わりにポケットからキャラメルを取り出した。包みを外して、口に入れた。甘い味が広がった。タバコの後のキャラメルは、いつもそうだ。悪くない。


 窓の外を、もう少し見ていた。


 濡れた路面に、また別の車のライトが反射した。白い光が伸びて、曲がって、消えた。街は動いていた。人がいて、車がいて、明かりがあった。この部屋の外では、何かがずっと動き続けていた。


 男はキャラメルを噛み終えて、包みをゴミ箱に捨てた。


 椅子から立ち上がった。ゆっくりと。膝を伸ばして、大きな体を起こして。デスクの上を一度見た。書類がある。ファイルがある。コーヒーメーカーのランプがオレンジ色に灯いている。何も変わっていなかった。


 電気のスイッチに手を伸ばした。


 止まった。


 一秒か、二秒か。男は電気のスイッチに手をかけたまま、動かなかった。窓の外を見ていた。夜の街を。濡れたアスファルトを。街灯の光を。


 それから、電気を消した。


 部屋が暗くなった。コーヒーメーカーのランプだけが、暗闇の中でぼんやりとオレンジ色に灯っていた。男はそれを見るとこともなく、ドアに向かって歩いた。


 廊下に出た。電気を消した。


 足音が廊下を進んでいった。遠ざかっていった。静かになった。

 特殊捜査室のドアは、閉まったままだった。コーヒーメーカーのランプだけが、暗い部屋の中で、誰もいなくなった後も、オレンジ色に灯り続けていた。

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