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正義のぶつかり

 空月蒼の補導歴の詳細が返ってきたのは、午後になってからだった。


 一件目は去年の秋、渋谷区内の路上で異能を無断使用したとして補導されている。被害者はなし、建物への損害もなし。本人は「制御できなかった」と供述していた。二件目は今年の春、同じく渋谷区内。空き地で異能を使用しているところを通報された。こちらも被害者なし。両件とも、保護者への連絡を試みたが連絡がつかず、児童相談所に一時的に引き渡されている。その後の記録はなかった。


 律は資料を読みながら、手帳にまとめた。渋谷区内での補導が二件。一件目と二件目の放火現場も渋谷区だ。行動エリアが重なっている。住所不定、保護者と連絡がつかない、十七歳。人物像が少しずつ形になってきた。


 次に目撃情報の収集に取りかかった。補導歴のある渋谷区内を中心に、周辺の交番や聞き込みで得られた情報を照合した。フードを被った細身の若い男、深夜に出歩いている、廃ビルや公園周辺でよく見かける、という証言がいくつか重なった。エリアが絞れてきた。渋谷区の外れ、廃ビルが集まっている一角だった。


 律は地図に印をつけながら、男を見た。


 男は目を閉じていた。律が動き回っている間、ずっとそうだった。何もしていないように見えた。でも律はもう、それに苛立つことに体力を使うのをやめていた。自分がやれることをやる。それだけだ。


「喰島さん」


 男が目を開けた。


「空月蒼の出没エリアが絞れました。渋谷区の外れ、廃ビル周辺です。補導歴の現場とも近い。今夜張り込みをしましょう。深夜に動いているなら、タイミングが合えば接触できます」


「……もう少し待て」


 また、その言葉だった。律は手帳を持ったまま、男を見た。


「何を待つんですか」


「もう少しだ」


「もう少しとは、どのくらいですか。明日ですか、明後日ですか。その間にまた放火が起きたら、どうするんですか」


 男は答えなかった。


 律は息を吸った。落ち着け、と思った。でも、落ち着けなかった。


「四件も起きているんですよ。一件目から数えてもう二週間近く経っています。容疑者の名前が出て、行動エリアまで絞れた。これ以上何を待つというんですか」


「……」


「あなたは何がしたいんですか」


 声が大きくなっていた。律はそれに気づいていたが、止められなかった。


 男がゆっくりと律を見た。


 いつもと少し違う目だった。眠そうな、焦点の定まらない目ではなかった。律をまっすぐに見ていた。珍しく、真剣な目だった。律はその目を見て、一瞬だけ怯んだ。でも、引けなかった。


「お前は、空月蒼ってやつが犯人だと確信してるか」


 男が言った。静かな声だった。


「証拠が示しています」


「確信してるかって聞いてる」


 律は少し間を置いた。


「証拠があれば、確信できます」


「証拠と確信は違う」


 短い言葉だった。でも、重かった。律はその言葉を受け取って、反論を組み立てようとした。証拠と確信は違う。そうかもしれない。でも、証拠があれば確信に至るのは当然の話だ。それのどこが問題なのか。


「では、先輩の確信は何ですか」


 律は言った。


「先輩には何が見えているんですか。残滓を食べて、犯行の瞬間を見て、それでもまだ待てと言う。待つ理由があるなら教えてください。私には証拠しかない。でも先輩には、証拠以外の何かが見えているんじゃないですか。それを教えてくれれば、私も待てます。でも何も言わずに待てと言われても、待てません」


 男は何も言わなかった。


 律の中で、何かが限界に来た。


「正義のために動こうとしない人間に、何がわかるんですか」


 言葉が出た瞬間、律は自分でも驚いた。言いすぎた、と思った。でも、止まれなかった。


「異能犯罪で傷ついた人間がいます。これからも傷つく人間が出るかもしれない。それを防ぐために動くのが私たちの仕事じゃないんですか。証拠が揃っていて、エリアも絞れていて、それでも動かないのは何故ですか。仕事だからやっている、そう言っていましたよね。仕事なら、動いてください」


 部屋が静かになった。


 男は律を見ていた。何も言わなかった。怒った様子もなかった。反論する様子もなかった。ただ、律を見ていた。その目が何を考えているのか、律にはわからなかった。


 沈黙が続いた。


 十秒か、二十秒か。律には長く感じた。男が何か言うのを待っていた。反論でも、説明でも、怒鳴られても構わなかった。何か言ってほしかった。でも、男は何も言わなかった。


 長い沈黙の後、男が口を開いた。


「……今日は帰れ」


 それだけだった。


 律は男を見た。今日は帰れ。それが、答えだった。反論も説明も怒りもなく、ただ帰れ、とだけ言った。


 律は手帳を閉じた。上着を手に取った。何か言おうとして、やめた。これ以上何を言っても、意味がない気がした。


「……失礼します」


 声が少し掠れた。律は頭を下げて、部屋を出た。


 廊下に出た瞬間、ドアが閉まる音がした。


 律は歩きながら、頭の中が静かになっていくのを感じた。感情が落ち着くにつれて、言葉が戻ってきた。正義のために動こうとしない人間に何がわかるんですか。自分が言った言葉が、耳の中で繰り返された。


 言いすぎた。


 そのことはわかった。でも、戻れなかった。戻って何を言うのか。謝るのか。でも、言ったことは本音だった。間違ったことを言ったとは思っていなかった。ただ、言い方が、言うタイミングが、言う必要があったのかどうかが、わからなかった。


 エレベーターのボタンを押した。


 ドアが開くまでの間、律は壁を見ていた。廊下は静かだった。フロアの喧騒がここまでは届いてこない。特殊捜査室のある廊下は、いつもこうだ。切り離されたような場所だった。


 エレベーターのドアが開いた。


 律は乗り込んで、ボタンを押した。ドアが閉まる前に、廊下の奥を一度だけ見た。特殊捜査室のドアが見えた。閉まったままだった。


 ドアが閉まった。


 律は正面を向いたまま、左手首に視線を落とした。時計の白い文字盤。黒のアラビア数字。


 お父さんなら、どうしたか。


 その問いが浮かんで、律はすぐに打ち消そうとした。でも、打ち消せなかった。エレベーターが動き始めた。


 特殊捜査室のドアは、閉まったままだった。


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