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蒼の浮上

 鑑識からの詳細報告が上がってきたのは、会議が終わってから二時間ほど後のことだった。


 律は特殊捜査室のデスクで資料を整理していた。四件分の現場データを並べて、共通点と相違点を書き出していた。男は目を閉じていた。いつものことだった。


 内線が鳴って、律が取った。鑑識の担当者だった。残滓の詳細分析が終わった、報告書をデータで送ると言った。律はすぐに開いた。


 報告書を読み進めながら、律の手が止まった。


 四件の現場に残された残滓の異能反応を精密分析した結果、使用された異能の系統が特定された。火を操る攻撃系異能。出力の強さから、使用者は成人前後の若年層と推定される。そして、その異能反応を異能登録データベースと照合した結果、一致する登録者が浮上した。


 空月蒼そらつき あお、十七歳。火を操る攻撃系異能の保有者。補導歴あり。現住所は不定。


 律は画面から顔を上げた。


「喰島さん」


 男が目を開けた。


「鑑識から報告が上がりました。四件の現場の残滓から、使用された異能の系統が特定されました。火を操る攻撃系異能です。データベースとの照合で、一致する人物が浮上しています」


 律は手元の資料を男の方に向けた。男はそれをゆっくりと見た。


「空月蒼、十七歳。補導歴あり、住所不定です。これで絞れました。早急に身柄を」


「待て」


 男が言った。律は動きかけた体を止めた。


「何を待つんですか。証拠が揃っています」


「揃ってるか?」


 律は男を見た。揃っている。何が足りないというのか。


「残滓の異能反応が一致しています。補導歴がある。住所不定で行動が掴みにくい。全部一致します。これ以上何を待つんですか」


「……残滓を食べたのは俺だ」


 男が言った。律は少し間を置いてから、意味を理解した。


「では、何が見えたんですか」


 男は答えなかった。すぐには答えなかった。窓の外を一度見て、それから律に視線を戻した。少しだけ、間があった。


「火を使った瞬間は見えた」


「はい」


「でも、それが放火かどうかはわからなかった」


 律は眉を寄せた。


「放火現場で火を使っていたんですよ。他に何だというんですか」


「……そうだな」


 男が言った。それだけだった。また窓の外を見た。律にはその言葉が同意に聞こえた。そうだな、放火現場で火を使っていたなら放火犯だ。それ以外にない。男もそれを認めた。そう聞こえた。


 でも男の目は、窓の外のどこかを見ていた。


 律には見えなかった。男の中で何かがまだ動いていることが。そうだな、と言いながら、その言葉の裏で別の何かを飲み込んでいることが。放火現場で火を使っていた、それは事実だ。でも、なぜ火を使っていたのか。放火のために使っていたのか、あるいは別の理由があったのか。残滓から見えたのは、火を使った瞬間だけだ。その前も後もない。なぜ使ったのかは、見えていない。


 男はそのことを、言わなかった。


 言葉にならなかったのか、言う必要がないと思ったのか、あるいは言っても伝わらないと思ったのか。そのどれなのかも、律にはわからなかった。


「空月蒼の行動履歴を調べます。住所不定であれば、よく出没するエリアがあるはずです。目撃情報を集めれば、接触できる可能性があります」


 律は手帳を開いた。やることが見えた。動ける。それだけで、体が前に向いた。


「補導歴の詳細も確認します。どういう案件で補導されたのか、担当した署に問い合わせれば、人物像が掴めるかもしれません」


 男は何も言わなかった。


「喰島さん、何か意見はありますか」


「……ない」


 律は手帳にメモを書き込みながら、頭の中で段取りを組んだ。補導歴の照会、目撃情報の収集、行動エリアの絞り込み。やることは多い。でも、ようやく名前が出た。ようやく、動ける。


 男は窓の外を見ていた。


 律が動き始めた音を聞きながら、男は先ほどのフラッシュバックをもう一度頭の中で再生していた。火を使った瞬間。人影。異能の光。


 あの動きが、引っかかっていた。


 火をつけようとしている動きではなかった。それはまだ、言葉にならないままだった。でも、確かにそこにあった。人影は火を使っていた。でも、その目的が放火だったかどうか、男にはわからなかった。


 わからない、ということを、律に言うことはできなかった。証拠が揃っている、と律は言った。確かに揃っている。異能反応は一致している。放火現場で火を使っていた。それは事実だ。


 でも、事実と真実は違うことがある。


 男はそのことを知っていた。知っていたから、待て、と言った。でも、何を待てばいいのかを、うまく言葉にできなかった。言葉にできない違和感は、証拠にならない。


「喰島さん、補導歴の照会は私がやります。目撃情報の収集は一緒に動いてもらえますか」


 律が言った。男は律を見た。前のめりになっている。目が真剣だった。止めることはできなかった。止める理由を、言葉にできなかった。


「……ああ」


 男は短く答えた。


 律はすでに電話を取っていた。補導歴の詳細を照会するために、担当署に連絡を取り始めていた。その声は真剣で、無駄がなかった。


 男は窓の外を見た。


 空月蒼。十七歳。住所不定。補導歴あり。それだけが今わかっていることだった。それだけで、律は動こうとしている。間違っているとは言えなかった。でも、正しいとも言い切れなかった。


 フラッシュバックの中の人影が、また頭の中に浮かんだ。


 あの動きの意味が、まだわからなかった。


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