第8話:紳士F:自称東都大学特任教授
六番手に動いたのは、ツイード調のジャケットを羽織った、いかにも“インテリ風”を演出した中年男だった。
髪はうっすらと白髪交じりで、顎には無精ひげを残している。片手にワイングラス、もう片方には分厚い専門書らしき本を携えているあたり、あざといくらい“知性アピール”を狙っていた。
「こんばんは。私は――東都大学で特任教授をしております」
――来た。
私はバーテンダーとして、カウンター越しに小さく息を吐いた。こういうタイプは決まって“大学肩書き”を最初に口にする。
玲奈がすぐに反応した。
その笑顔は柔らかいが、目は冷静に相手の足元を測っている。
「特任教授、ですか」
玲奈は首を傾げ、マティーニを軽く回した。
「失礼ですが、それって――“終身教授”や“正規の准教授”とは別枠ですよね?」
男の顔が一瞬だけ引きつった。
「え、ええ……まあ、研究業績に応じた柔軟な……」
玲奈はそこで小さく微笑んだ。
「柔軟、というより――“任期付き”で大学の名前を借りている立場。いわば契約社員に近いポジション、という理解で合っています?」
店内の空気が一瞬で凍る。
男は慌ててワイングラスを口に運ぶが、声が上ずっていた。
「い、いや、私は企業との共同研究も多くて……学生からも慕われていて――」
玲奈はすかさず畳みかけた。
「なるほど。“慕われている”のは素晴らしいですね。でも……教授職を口説き文句にするなら、せめてインパクトファクターの高い論文タイトルくらいは、その場で言っていただけないと。――その上で、そのIFがジャーナル側の操作やバイアスでないかどうか、始めてまともな議論ができようというものです。ましてや論文も出せない“口頭発表”じゃ、私たちもレビューしようがありませんよ?」
男は完全に沈黙した。
グラスを見つめたまま、そそくさと元の席へ退散していく。
亜紀が横目で玲奈を見て、声を抑えながら笑った。
「……まるで“rejected after review”だったわね」
玲奈はグラスを揺らしながら、涼しい顔で答える。
「だって、“not live up to one's name”な研究には、誰も時間を割きませんから」
私はバーテンダーとして、磨いていたグラスをそっと棚に戻した。
――この二人の前では、“教授肩書き”すら、ただの飾り物に過ぎない。