第6話:紳士D:自称大手自動車メーカー勤務
次に近づいてきたのは、紺色のジャケットにチノパンという、いかにも“仕事帰りにカジュアルダウンしました”という格好の男だった。
胸ポケットにはブランド物のボールペンを覗かせ、手にはグラスではなく、あえてのハイボール缶。――店で缶を持ち込むあたり、すでに場違い感がある。
「こんばんは。いやぁ、やっぱり夏は浴衣ですねぇ。僕は某大手自動車メーカーに勤めてまして……よければ一緒にお話でもどうですか?」
――来た。
“某大手自動車メーカー”。
この国の男たちが、肩書きとして最も誇りたがるワードの一つ。
私はバーテンダーとして、心の中で「さて何秒で終わるか」とカウントを始める。
玲奈がグラスを回しながら、静かに目を上げた。
その微笑みはまるで慈悲深い女神のように見える。だが、その裏には冷徹な査定が潜んでいる。
「自動車メーカー……?」
玲奈は首を傾げて、氷をカランと揺らした。
「失礼ですけど、いま“CASE”の真っ只中ですよね」
男の顔が固まる。
「え、いや、まぁ……そうですね」
「Connected、Autonomous、Shared、Electric。
掛け声ばかりで、実際にはEVの普及計画は遅れて国内の販売シェアは1.35%、ソフトウェア統合は外注頼み、レベル4には法整備が追いつかず、センサー、小型 LiDARなどの技術コストはなかなか下げられない……その状況で“某大手”って名乗られても、正直ピンと来ないんです」
男の口角が引きつる。
「いや、その、我々だって必死に取り組んでいて――」
玲奈はふわりと笑みを深め、マティーニを傾けた。
「分かります。社員の方々は努力されている。でも“会社の看板”で女性を口説こうとするなら、せめて次のロードマップくらい語れる人じゃないと。……少なくとも、私たちは“gas-powered car”では持ち帰れませんから」
その一言で、男は完全に沈黙した。
わずかに頭を下げ、視線を逸らし、元の席へと戻っていく。
亜紀がくすりと笑い、玲奈に囁いた。
「……見事なコーナー切り返し」
玲奈は肩を竦め、マティーニのグラスを軽く持ち上げた。
「ドリフトは得意ですから」
私は思わず磨いていたグラスを止め、小さく吹き出しそうになるのを堪えた。
――やはりこの二人、車線変更一つで相手を退場させる。イニシャルDのようだ。