3 見えない者たち
「‥‥98、99、100! ぶへ‥‥。」
腕立ての姿勢のまま床にうつ伏せにつぶれたウイルを見て、イオが笑った。
「そんなに頑張って筋トレしなくたって、わたしのボディも強化ボディになったのに。」
ウイルはごろんと仰向けになる。
大学の准教授だった頃と比べれば、見違えるような引き締まった身体になっている。
「自分の身くらい自分で守れるようにしないとね。いざという時、イオにばかり負担をかけるから。」
「あれからはもう、誰も襲ってはきませんよ。」
イオは椅子に座ったまま、くすくす笑っている。
あの事件以来、彼らはデジタル世界の記録から完全に消えてしまっている。
それはイオの特別な能力の賜物だったが、それでもR国のヒューミントのようにどこかで偶然見かけた情報員が後をつけてきたり襲ってきたりしないとも限らない。
フィジカルに戦える力も必要だ——とウイルは一連の事件を通じて痛感していた。
だからこそ、ジェフの誘いにも応じて協力関係になることにしたのだ。
依頼を受けた情報について調べて提供し、場合によっては改竄する——というだけのことだが。
戦争を止めたい、と言うジェフの思いに共感したこともある。
何より、イオのこの幸せそうな笑顔を守りたかった。
エレンは、そこそこの戦闘にも耐えられるようイオの新しいボディを強化してくれていた。
すでにあの時から、ジェフとエレンはイオとウイルを仲間にできると思っていたのかもしれないし、単に強い身体を作ってやりたいと思っただけかもしれない。
いずれにせよ結果として、イオとウイルはJBチームと協力関係になっている。
ウイルがそんなことを取り止めもなく考えていた時、イオが真剣な表情になって告げた。
「ウイル。JBから応援要請です。パソコンの音声につなぎます。」
「やあ、ウイル。イオ。久しぶり。」
「そうでもないですよ。1週間と2時間前にお話ししましたよ?」
「そうだっけ?」
イオのツッコミに、相変わらずジェフはあの笑声だ。
「S国の件ですか?」
「さすがイオ、話が早い。」
「S国というと、あの音楽フェス襲撃事件?」
ウイルも会話に参加する。
「そちらも事前情報をつかんでなかったんですか? イオも寝耳に水だったみたいだけど。」
「ヤツらは作戦を成功させるため、デジタル通信による連絡を極力抑えていたようなんだ。」
それから、ジェフは結論だけを先に言った。
「S国のイーダは『狼の牙』を殲滅するためにL国に侵攻するつもりのようだ。戦争を止めたい。」
ジェフの話では、すでにS国の特殊部隊がL国に侵入して捜索活動を始めているということだった。
周り中に敵を抱えるS国の情報機関は並ではない。特殊部隊が急襲するための情報は、かなり揃ってきているらしい、ということだった。
このままだと1両日中にも戦闘が始まりそうだ。
今、A国の大統領とE国の首相が、イーダ首相に早まったことをしないよう説得を続けているという。
「イーダ首相の娘、ミアが人質として連れ去られている。それでもイーダ首相は力による奪還を命じた。1〜2割の人質の犠牲はやむを得ないと考えているようだ。娘の無事を願うなら、穏便な交渉の方が確実なのにね。」
「父親として娘がかわいくないんでしょうか?」
イオが眉をひそめて言ってから、ちらとウイルを見る。
この人だったら、絶対にそんな選択はしない。
「一国のトップというものは、ときに非情にならなければならない時もあるのさ。」
そう言うジェフの声は相変わらず笑声だ。
この男は、声のトーンにあまり感情を乗せない。
イオもNET内の情報から多くの知識を学んではいる。
そして、歴史の中で王や将軍がそうした非情な決断を下さなければならなかった事例も多く知っている。
けれど‥‥。
知っていることと理解できることは別だ。
イオは人質たちを無事に救出したいと思った。
ジェフたちは、そのために動こうとしているのだろう。
「わたしは何をすれば?」
「イオ‥‥。」
ウイルは積極的に関与しようとするイオに不安を覚えた。
この子はまだ子どもなんだ——。
「人質たちを探してほしい。特にミアを。それが侵攻を思いとどまらせるカードになる。我々が救出できれば、その手柄をカードに平和的な解決を促すことができると思う。」
「わかりました。」
即答してから、イオはちらっとウイルを見た。
ウイルは静かにうなずいてやる。
この状況で、イオの気持ちは止められまい。
イオに不足しているものは、ウイルが補えばいい。