11 エージェントの男
「え?」
とウイルはついふり向いてしまった。
人は不意に名前を呼ばれると反応してしまうものだ。
気をつけて緊張していれば、自分とは関係ない、というフリもできるものだが、今のウイルはイオを心配するあまり、そうした警戒が緩んでいた。
少し考えれば、デジタル世界から消えてしまったウイルとイオの名前を、外国の街で呼ぶような人間がいるはずがないのだ。
しまった!
と思った時には、目の前の男の持つ銃がウイルに向けられていた。
「やはり‥‥。」
男は薄ら笑いを浮かべている。
「イオを失って傷心の博士が世界から消えてしまったという話でしたが——。どの国の機関が探しても見つからなかったというのに、偶然こんなところでお会いできるなんて‥‥私は運がいい。」
ウイルは男を知らない。
どこかで会っているか?
「R国のエージェントです。この国でのミッションは、わたしたちとは関係のないことのようですが。」
イオが耳打ちするように、低い声でウイルに告げる。
すでにR国の機密情報にアクセスして、男のデータを盗ってきたらしい。
「そちらの銀色ののロボットは、死んだはずのイオですかな? それとも後継機種?」
男は油断なく銃を構えたまま、パーカーのフードをかぶったイオを覗き込むように見た。
イオが少し嫌な顔をする。
「私たちは今、忙しいのだ。君の任務は私たちではあるまい。」
ウイルがイオを庇うように前に出る。
「ずいぶんと度胸がよくなったようですね、博士。私の任務など——。あなたを国に連れて帰るだけで勲章ものですよ。」
男は落ち着いた様子でニヤリと笑う。
「一緒に来ていただきましょう。」
今度はイオがウイルを庇うように前に出る。
「ほほう。勇気がああるね、イオ。——イオでいいのかな? それとも後継機種には別の名前が?」
「イオだ。」
とウイルが答える。
「では、イオ。検索能力に長けているようだから、この銃がデザートイーグルだというのはわかるな? 金属といえど、君のボディはこれに耐えられるのか?」
「イオ、武術。」
ウイルがそれだけを言う。
「?」
男は銃の威力に慢心していたのだろう。次の瞬間のイオの動きを見ることさえできなかった。
男の手首にヒヤリとした感触があったと思った瞬間、手首が捻りあげられ、気がついた時には銃はイオの手の中にあった。
「!」
至近距離での銃の奪い方は、格闘訓練の中で十分に叩き込まれていたはずだったが、まさかロボットが訓練されたプロのスパイ以上の速さでそれをやるとは思ってもいなかったのだ。
しまった!
と思う間もなく、男の死角からイオの上段回し蹴りが側頭部に炸裂した。
男は脳を激しく揺さぶられ、糸が切れた操り人形のようにアスファルトの上に横倒しに倒れ込み、頭を強く打ってそのまま白目をむいて昏倒した。
「見事だ、イオ。NETの動画を見ただけで名人と同じ動きができるんだから、羨ましいよ。私なんてヘロヘロになるまで練習したって、こうはいかない。」
「だって、それは‥‥」
とイオはアパートの部屋を出てから初めて、笑顔らしい笑顔を見せた。
「たしかに‥‥。落ち込んでる暇はないですね。」
「銃を。」
と言うので、イオはデザートイーグルをウイルに渡す。
「さて、我々の存在を知られてしまったこの男をどうするか、だが‥‥。」
ウイルはその強力な銃の銃身を男の頭に向ける。
「消してしまうのが、いちばんあと腐れのないやり方だが‥‥」
え? そんな‥‥。という顔でイオがウイルを見る。
ウイルにだけは殺人者になってほしくない。
それが、理も非もないイオの気持ちだった。
少し頼りなくても優しいウイル——。頭を撫でてくれるその手は、決して血で汚れてはいない‥‥。
それが、イオの最終的な居場所だから。帰ってくる場所だから‥‥。
ウイルはニカッと笑った。
「もちろんそんなことはしないさ。」
「覚えてるかい、イオ? R国内部を撹乱した時のやり方。」
ウイルが言うのは、あのR国脱出の時に追っ手の一部が裏切ったように電子データを改竄したことだ。
「裏切ったように見せかけるわけですね?」
「それで、この男の言うことは苦し紛れの言い訳にしか聞こえなくなる。そのためにイオの名前もわざと教えておいた。」
だがその作業にイオが取りかかる前に、ソーニャから緊急の応援要請があった。
ウイルのスマホにも緊急のメッセージが入る。
「ミサイルシステムは復旧していないが、S国は戦闘機を使った! 夜間の空爆をするつもりだ。これは犠牲が大きくなる。L国も引っ込みがつかなくなって、本格的な戦争に突入するぞ。」
ウイルも顔色が変わった。
「止められるか? イオ!」
「止めます!」
イオがその場で仁王立ちになった。