1 誘拐された少女
彼らはどこにも存在しない。
そう。デジタルが情報取得手段のほとんどになってしまったこの世界の、どこにも存在しないのだ。
ー ー ー ー ー ー ー
=電子線上の天使= Aju
「あああああああ! うあっ! うあっ、ああああ!」
少女は髪を振り乱して、バンバンバンとベッドを叩く。
嬉しかったり、怒ったり、悔しかったり‥‥。感情が激して興奮すると、少女はいつもこの症状を示した。
「どうしたんだ、ソーニャ?」
ソーニャは重度の自閉症だ。
他人と直接にコミュニケーションを取ることが上手くできず、パソコンのキーボードを使って合成音声で会話する。
目を合わせることもしない。
先天的な発達障害に加え、幼い時に受けた戦争のトラウマが現在のこの状況をつくっている——と医師は言うが‥‥。
しかし同時に、彼女の脳はその不足分を補って余りある異能を持っていた。
その偏った能力は、チームにとっては欠かせない戦力でもある。
ソーニャはベッドから向き直り、カタカタと凄まじい勢いでキーを叩く。
「あっ! あああ!」
ソーニャの見かけの仕草とは別に、パソコンは打ち込まれた文字を冷静な合成音声にして出力した。
「ジェフ! イオに協力を要請して。わたしだけじゃ手に余る。」
「イオの居場所はわかるのか?」
「もちろん。それは把握してる。ジェフの許可が欲しいだけ。」
「オーケー。つないでくれ。」
* * *
事件が起きたのはコンサート会場でだった。
この国で初めて開催されたヴァーチャルコンサート。
舞台の大画面に映るシルエットだけのシンガーと、会場に流れる伸びのある中性的な歌声。
ミアがその歌声を知ったのは1年前のNET空間でだった。
衝撃を受け、以来ずっと追いかけ続けている。
そのなんとも言えない、魂ごとわしづかみにされるような声の主は、まだ10代の、それもミアと変わらないような年齢の子だともいう。
ヴァーチャルシンガーだから、顔はもちろん、性別すらわからない謎だらけの人物だ。
そのヴァーチャルシンガー「AJU☆」がこの国の音楽イベントにやってくる。
その情報を手にした時、ミアは初めて父親におねだりしてプラチナチケットを入手してもらった。少しだけ‥‥ズルかもしれない、という罪悪感を持ちながらも。
ミアは酔った。
会場の空気に——。その歌声に魂を揺さぶられるままに、身を任せて‥‥。
そんな至福の空間が破られたのは、突然起こった場違いな音によってだった。
パン! パパパパン!
初め、ミアは花火かと思った。
それが銃声だと気がついたのは、人々の悲鳴が起きてからだった。
「こちらへ!」
護衛がミアの腕をつかんだ。
正面の巨大モニターの光が消え、薄暗くなった客席の椅子の間を縫って、ミアの身体を抱き抱えるようにした護衛が走り抜ける。
パパン! パパパパン!
人々の悲鳴と、外国の言葉で何かを怒鳴る声に混じって、時々乾いた銃声が響く。
ミアは体がガタガタと震えて足に力が入らなくなった。
そんなミアを抱えて、護衛が身を低くしながら椅子の間を駆け抜けて非常口に向かう通路に出ようとした時だった。
ガッ! と音がして、ミアは護衛と一緒に椅子の間の通路に倒れ込んだ。
顔を上げると、目の前に頭から血を流した護衛の顔があった。
「いやあああ‥‥」
と叫ぶ前に、ミアの鼻と口が柔らかな布のようなもので覆われる。
布からたちのぼるその甘い匂いを嗅いだ途端、ミアの頭の芯がぐらりと平衡を失って‥‥
ミアの意識は、宙に跳んだ。