第8話 「自由の会①」
その少女は、ペコリと頭を下げた。
少しぎこちないけど、それでも丁寧だった。
肩まで下ろした艷やかな黒髪に、真っ白い肌。
長いまつ毛が、その目を飾っている。
そして、それは強さなのか、弱さなのかは分からなかったけど、何か強い力が目の奥に宿っていた。
レイナ・ミレトス。
どこの家の子だろうか?
しかも女子。
途中入学者というのはごくたまにいて、特殊な家の人が多い。
そのせいで上手く馴染めないことも多々あり、気苦労が多そうだ。
彼女は真ん中の方の席に座った。
まだ試験を受けていないので、最初は公平に、ということだと思う。
席が遠いため、あまり話す機会もないだろう。
そもそも女子と話すこと自体少ないのだがね。
僕はそれっきり考えるのをやめてしまった。
でも、その不思議な目を忘れることは、決して僕にはできなかった。
⋯⋯
授業の時間だ。
基本的に午前は神学、古典魔語、音楽、詩学から2科目。
加えて魔術総合学を学ぶ。
さらに午後は数学、修辞学、歴史から2科目。
これらを毎日繰り返すのだ。
辛い。
そして今日は神学、古典魔語の授業から始まる。
古典魔語とは、この周辺の地域で古くから使用されてきた言語だ。
魔神教の聖典はこの言語で記されているし、トリスやサマルトリアの学問研究もこの言語を使用する。
教養の基盤なのだ。
先生の名前はアサナシオス・アトス。
髪を後ろになでつけた聖職者のおっさんで、
あだ名は「チョロ毛」。
1本だけチョロ毛が出ているからだ、
そしてこの毛を巡って血みどろの争いが起きたとか、起きなかったとか⋯
そんな噂があったとか、なかったとか⋯
真相は誰にも分からない。
僕は神学系が特に苦手で、これらの成績を上げることが今の急務だ。
⋯⋯
神学系の科目が終わり、次は魔術総合学だ。
魔術総合学とは、魔術物理学、魔術化学、魔術実践の3分野から構成される科目だ。
この学院は魔術教育がそこまで盛んではない。
なので主に理論を学び、実践は多少やる程度になる。
魔術が苦手な僕としては、少しばかりありがたい。
今日はその中でも、魔術物理学の授業がある。
魔術物理学とは、魔術を構成する「魔素」について、その組成や運動などを研究する学問だ。
魔素というのはかなり小さな粒子で、専用の魔道具を使わないと目に見えないらしい。
大学に行かないとそんな道具はないので、僕も見たことがない。
先生の名前はヴァシリコ・ロフトス。
かなり厳しい。
居眠りをしている生徒には、岩石魔術で作った鋭利な岩を耳元に近づけるという物騒なことをする。
オズは、居眠りの度に凶器が近づいていき、最終的にはしっかり刺さったらしい。
僕は未だ無傷だ。
あだ名は「ミーホー」。
ミーホーとは、聖典に記されている怪物の名前だ。
人の欲しがる物を欲しがり続け、自分というものを失くしてしまった哀れなやつだ。
「最近流行りのトレーニングメソッド」だとか、「最近流行りの魔術痩せ!」だとか、そういう類のものを収集して見せびらかすのが彼の趣味らしい。
実践はまだまだ得意じゃないけど、理論は結構好きだ。
自分の目に見えない世界がどうなっているのか、ワクワクが止まらない。
それに最近は、魔素の制御がかなり上達してきたのだ。
2年前のあの事件から、なぜか魔術の暴発が続き、その度に必死に抑え込んでいた。
だけど、そうやって必死にコントロールしようとしているうちに、そもそもの操作能力も上がったようだ。
他にも、どうやら「魔素の流れ」のようなものが見えるようになったらしい。
らしい、というのは、僕もこの現象についてよく分かっておらず、何となくそう思うからだ。
これもあの事件の影響なのだろうか?
だとしたらロイはどうなんだろう?
そうぼんやり考えていると、
「なに居眠りをしている?」
気づけば、耳元に凶器が近づいていた。
⋯⋯
危ないところだった。
僕の無傷記録に傷がつくところだった。
そしてやっとこさ授業が終わり、ロイと今から食堂に向かう。
僕らの教室は2階で、食堂は1階だ。
「危うくミーホーに刺されるところだった⋯
危ない危ない」
僕は何気なく呟いた。
「ハルがボンヤリしてるのなんて初めて見たよ」
ロイも何気なく呟いたが、少しだけ声のトーンが下がっている。
あの日から、ずっとそうだ。
「剣術会の方はどう?」
「うん⋯
まだ足りない」
「何が?」
「分からないけど、まだ、足りない」
ロイは斜め上を向き、その目は僕を見ていない。
「俺はとにかく⋯
剣を振っていたいんだ」
その声音には、いくらかの迷いが感じ取れた。
でも、彼の立場や置かれている状況、事実は知っていても、心の内を上手く想像することはできなかった。
僕は、微かに手に力が入るのを感じ、そのまま食堂に向かった。
⋯⋯
「これはこれはお二方。
今からお食事ですか?」
僕は、パン、チーズ、ぶどう酒をトレイに乗せ、いつもの席に着席した。
ロイも同じものだ。
この学院の食事はひどく簡素で、屋敷に帰るころにはお腹が減って仕方がない。
たまに家から持ってくる強者もいるけど、どうせたくさんは持ってこれないので堪忍するしかないのだ。
「このパン、カビ生えてない?」
僕はこういうところには目ざといので、後でチクチクと報告してやることにした。
「あ、ホントだ。
でも許せる範囲だね」
ロイはあまり気にしないらしい。
確かに冒険をするなら、魔物の死肉を食べたり、泥水を飲んだりしないといけないって言うし、それも才能なのかもしれない。
と、楽しく2人で会話をしていると、
「ちょっと無視しないでくださいよぉ。
僕も混ぜてください」
魔女のような恐ろしい笑みをした男が隣に座っていた。
オズだ。
相変わらず山のような豆を皿に盛り、パンもチーズもそこにはない。
もはや食堂の豆は、その9割がこいつの汚物となって学院を汚している。
「あ、いたのか。
ごめんごめん」
「絶対ウソでしょ!
まったく」
ロイはオズのことが苦手らしく、こいつが来ると口数が減る。
いやオズのことは全人類が苦手なので、話しかけられた人間は一言も発さず、寂しい人生を送り続けてきたに違いない。
「僕はもう限界です!!
もうやるしかない!!
そうですよね!!」
急に鼻息が荒くなったけど、何のことやら分からない。
分かりたくもない。
「だから下すのです!!
あいつらに!!
鉄槌を!!」
どうやら先ほどの噴水事件でミーホーにこっぴどく叱られたらしい。
それはいつものことだけど、ついに限界値まで達したんだとか。
どっちが先に限界値を超えたのかは、こいつの意識には存在しない。
「へえ」
「いや、あなた方もやるんですよ?」
いやだ。
「ということで、授業終わりに先生の元へ向かいます。
そこで僕は宣言をします。
いいですね?」
そうオズは言うと、さっさと豆を平らげ行ってしまった。
また何をしでかすのか分からないけど、なるべく関わりたくない。
そう思いつつも、若干の楽しさを感じている僕であった。
⋯
午後の授業が始まった。
午後は数学と歴史。
数学は主に幾何学を学び、歴史はトリスのことを学ぶ。
当然サマルトリアではサマルトリアの歴史を勉強していたので、僕には何だか新鮮だ。
あのときは怒られないように必死に勉強していたけど、今はそこそこ楽しい。
それも、この科目の先生のおかげだ。
「分かりますかー?
この面積に注・目・する・から!
この値が出てくるんです」
「私を信じてください。
ぜっっっったいに分からせますから!
呆れるほど分からせますから!」
「まず勘違いを解きましょう。
君たちは、根・本・的に間違えてる」
「数は記号じゃない」
「数は、言葉だ」
僕は雷に打たれたように感動した。
そして味わったことないほどの快感を覚えた。
これが数学か。
これが、学問か。
「暗記じゃねえぞ。
いいか?
暗記じゃねえからな?」
「理解しろ」
これが学院一の人気教師、
フランソワ・サー・トリス先生だ。
肩まで伸びた長い髪に、静かく燃える青い瞳。
長い口ひげが特徴だ。
歳は30代後半らしく、教師にしては随分と若い。
さらに名前から分かる通り、トリス王国を治めるトリス王のご兄弟なのだ。
末っ子らしい。
じゃあ何でこんな所にいるかというと、当然両親は政治的な駒として先生を育て上げてきたが、その束縛に耐えきれず、大学生のころに逃げ出してしまったのだ。
そして、幸い兄は無事に即位し、他の兄も数多くいるため、もうこいつはどうしようもないと放置されているらしい。
そんな先生はとても自由に生活しており、教えるのも上手い。
かつては帝国魔術大学で教鞭を執ったこともあり、兄のこともよく知っているそうだ。
「じゃあ今日はここで終わり。
ではまた」
終わってしまった。
あと20分あるのに。
⋯⋯
授業が終わると、即座にオズが走ってきた。
お互いが頭と尻尾にいるにも関わらず、もの凄い早さだ。
「そろそろ行きましょうか」
そろそろもクソもないけど、どうせ無理矢理連れて行かれるのだから大人しく従った。
「で、どこだっけ?」
「フランソワ先生の部屋ですよ。
彼ならこの宣言を受け容れてくれるはずです」
相変わらずよく分からない。
よく分からないやつばっかだ。
ロイも誘おうと思ったけど、もう教室にはいなかった。
⋯
部屋の前についた。
僕の心臓は激しく鳴っているけど、オズはいつも通りの気持ち悪い笑みをしている。
「失礼します」
あっという間に扉を開けた。
ノックとかしたらどうかね。
「ん?
何の用かな?」
授業のときとは違い、先生は穏やかな笑みを浮かべている。
「今日は、宣言に参りました」
オズはハッキリと言った。
「ほう。
何の?」
「僕は、”自由の会”を設立します」