第2話 「僕の英雄」
城が空から降ってきた。
いや、いや。
そんなわけ⋯
巨人に投げ飛ばされたのか?
いやいやそれこそ童話の世界だ。
じゃあなんだ。
突然そこに現れたとでも?
そんな魔術あったっけ?
もっと魔術の勉強頑張るんだった。
いやそんなことはどうでもいい。
このとき僕は、まるで童話の世界にいるような気持ちだった。
現実から離れ、孤立し、フワフワと浮いている。
僕はどんな世界に来た?
僕はどうなった?
僕の、居場所は?
そしてふっと現実世界に引き戻された。
今までロイが言ったこと。
心のなかでそれを嘲笑してきたこと。
数年間の記憶が、僕を非難するように現れたようだった。
それと同時に、体が震えていることに気づいた。
手、足、顎。
そして速まる心臓の鼓動。
この震えは⋯
それにしてもあの白銀の城、よく見るとなんだか黒いモヤがかかっているようだ。
不穏だな。
街1つを呑み込んでしまったということ、それはつまり、何千人という人が死んだということだ。
僕は先走る恐怖と不安感を必死に抑え込もうとした。
でも、血流のように体中に行き渡る負の感情は、すでに僕の脳を完全に支配していた。
そうして突然頭に浮かんできたのは、屋敷に帰ってからのことだった。
我ながらホントに情けない。
こんな状況になっても、僕は勉強のことを心配している。
もう宿題を終わらせることは出来ないだろう。
先生に叱られる。
見捨てられる。
次の居場所はどこだろう?
屋敷にだってどんな顔をして帰ればいいのか分からない。
そもそも僕を叱ってくれるのだろうか?
分からない。
憂鬱だ。
でも、こんなところに居たってどうにもならない。
あの城がこれからどうなるのか、全く予想がつかない。
もしかしたら、またあの爆風や地響きが襲ってくるかもしれない。
帰ろう。
僕はやっと、鉄のように硬く、重くなった腰を持ち上げた。
「行こう、ハル」
は?
灯火のように目を輝かせ、ロイは城を指さし言った。
また始まった。
確かに今まで笑って悪かったと思ってるし、助けてくれたのも感謝している。
でも今は違うだろ。
近くに行ってまた災害に巻き込まれたらどうする?
今度こそ死ぬかもしれない。
個人の戦闘能力がどうとか、そんな次元の話ではないんだ。
こんなところで僕は⋯
「行かないのか?」
「危険に決まってるだろ!
何が起こるか分からないんだぞ!」
「そうか。じゃあ俺1人で行くよ」
そう呟いたロイの目は、さらに輝きを増していた。
だめだこいつ。
僕じゃ止められない。
そんなの行かせるわけ無いだろ。
でもどうする?
どうやって止める?
そうやって僕がこの状況の解決策を考えようとしたその瞬間、
ロイは突然駆け出した。
「おい!!
待てって!!」
「ロイ!!」
ああ!!
クソ!!
もうこうなったら無理だ。
力ずくで行くか?
いやそれこそ無理だ。
そもそも追いつけないし、まだあの恐怖の余韻がひしひしと残っている。
でも、行くしかない。
僕は初めて歩いた赤子のように、無様に走った。
もはやそれは「走り」ではなかった。
右足と左足がごちゃごちゃに絡まり、何度も何度も転倒した。
それでも走った。
走って、転んで、走って、走って。
気づけばロイの姿は、視界から消えていた。
⋯
やっとのことで丘を下り終わった。
きつい。
体は傷だらけだ。
足はプルプル震えている。
類まれなる鍛錬をしてなかったら、とっくに力尽きていただろう。
教官に感謝だ。
そうして正面に広がる緑の平野を見渡すと、あの城と僕の中間くらいの一点、そこにあるはずのない、真っ黒い塊が蠢いていた。
ドドドドドドドドド!!!!!!!!
地面を激しく打つような、鈍い音が響く。
しばらく忘れていたあの恐怖が、再び僕の脳を支配した。
なんだ?
魔物?
あれが元凶?
心臓がバクバクする。
激しいリズムに合わせて鼓動が速くなる。
大きくなる。
そうして数秒ほど立ち止まっていると、左側にもう一つその黒い塊が見え、こちら側に迫ってくるのが分かった。
やばい。
くる。
逃げないと。
逃げないと。
逃げないと!!
でも、とっくに体力を使い果たした僕の体は、まるで大樹のように地面に強く根を張っていた。
動け!
動け!!
動け!!!
動かない。
ピクリだって、動かなかった。
どうする?
何か魔術は?
無理だ。
無駄だ。
もう、何もできない⋯
何も⋯
そうだ。
もう仕方ない。
諦めよう。
どうせこんな人生だ。
僕はあいつとは違う。
養子に出されたあの日から、この運命は決まっていたんだ。
生みの親は僕を捨てた。
ロイも僕を置いていった。
僕は、僕を捨てられるだろうか?
そう思うと急に怖くなった。
心臓はこんなにも激しく動いているのに、体はこんなにも熱を帯びているのに⋯
今、初めて分かった。
「死ぬ」ということが、こんなにも難しいことなんだって。
頭では分かっていたつもりだった。
どんなに自分が惨めでも、どんなにお先真っ暗の人生でも、死ぬことだけはやめようって。
きっと生きてれば良いことがあるって。
そう思っていた。
でも違った。
そんな甘いものではなかった。
ただ怖かったんだ。
怖くて死ねなかっただけなんだ。
目に見えない未来への希望なんて、迫りくる死を振り向かせることすらできない。
でも、もうどうしようもない。
心が動けと叫んでも、体は決してついてこない。
涙すら、流れなかった。
ああ⋯
せめてあいつに⋯
唯一の友達だったロイに⋯
「助けてくれてありがとう」って⋯
伝えておくんだったなぁ⋯
音はドンドン大きくなる。
黒い塊もドンドン大きく迫ってくる。
そして、その塊は、僕のそばで停止した。
「君もか、少年」
⋯
うっ⋯
気づけば気を失っていたようだ。
体が上下に揺れている。
なんだか硬い感触が、背中と股の間にある。
なんだろう?
目を開くと、僕は宙に浮いていた。
いや、違う。
何かに乗っているのだ。
そして、移動している。
「目が覚めたか、少年」
真上から声がした。
見上げると、人間の顔があった。
「あう」
変な声が出た。
恥ずい。
咄嗟に咳をしてごまかす。
硬い感触と体の揺れ、そして人間の声。
やっと状況が飲み込めた。
僕は馬に乗り、誰かの体に寄りかかっていたのだ。
体の傷は、きれいに消えていた。
そして、
「ハル!!」
聞き慣れた声がした。
右側を見ると、金髪の元気そうな少年。
ロイもそこにいた。
⋯
彼は隣を歩く、もう1頭の馬に乗っていた。
どうやら、僕らは2人とも助けられたらしい。
いや、ロイに関しては「捕獲された」という方が正しいかもしれない。
どうせあいつのことだ。
城に行くんだ!離せ!と暴れたに違いない。
僕達がクラリス家のガキどもだと分かった彼らは、どうやら屋敷まで送ってくれるらしい。
そういえばもう朝を迎えていたんだった。
あの爆音、地響きを考えると、周辺の町や都市、そこから王都にまで情報が届いていてもおかしくはない。
そして今、彼らが到着したみたいだ。
しかもこの方々、しばらく気が付かなかったのだが、漆黒の甲冑に純白のマント、王国の紋章。
”聖霊の騎士団”だ。
聖霊の騎士団とは、トリス王国屈指の大騎士団で、噂によると聖霊とともに戦い、聖霊とともに食事をし、聖霊とともに寝るらしい。
聖霊愛好家のおじさん達だ。
トリス王国は魔術師が少ないため、子どもたちの熱い視線はこちらの方々に向けられている。
そりゃあ僕も1度は憧れた。
まあ魔術師として育てられる運命の僕は、そうそうにその道を諦めてしまったのだが。
しかしここに1人、ウキウキとした表情で騎士に話しかけている男がいた。
もちろんロイである。
「ドラゴン倒したことあります?」
あるわけないだろ。
なんちゅーこと聞いてんだ。
ただ領主の息子らしく、礼儀はしっかりしている。
もっとマシな質問をしてくれたらいいのだが⋯
最初こそロイは暴れていたみたいだが、聖霊の騎士団だと分かるとすっかり大人しくなったようだった。
こいつは騎士になりたいわけではないらしいが、やっぱり剣士たるもの、憧れではあるらしい。
そして僕らは、しばらく馬に運搬してもらったのだった。
⋯
体の傷は癒えたが、心の傷は完全には癒えなかった。
ただ、ちょっとだけ落ち着いた。
帰りの道中、いくつか騎士の方々に質問された。
「あの城が現れたとき、君たちはその近くにいたのか?」
「この一連の出来事について何か知っていることはあるのか?」
「そもそも、なぜ君たちのような子どもが、こんな時間に従者も連れず出歩いている?」
などなど…
当然僕たちも何が起こったのか分かっていなかったので、ほとんどの質問には答えられなかった。
3つ目の質問に関しては、ただただ答えづらかった。
騎士の方々も状況を把握できていないようで、この場にいる誰も、明確な解答を持つものはいなかった。
合理的な予想すら、思い浮かばなかった。
しばらく移動し、城下町に入り、屋敷の前までたどり着いた。
もう昼だ。
騎士の方々は門の前で馬を止めると、まず先に馬から降り、続いて、僕たちをひょいっと持ち上げ降ろしてくれた。
「では。
我々も任務があるのでね」
騎士たちは再び馬に跳び乗った。
あのとき見た黒い塊はとても怖かったけど、今は僕の英雄だ。
感謝してもし過ぎることはないだろう。
「どうもありがとうございました!」
ロイは言った。
寂しそうな目をしていた。
「あ、ありがとうございました!」
僕も負けじと言った。
心臓は鼓動を増していた。
でも、この速さはなんだか心地が良かった。
騎士たちは颯爽と去っていく。
その純白のマントは、彼らの栄光を反射するようにキラリと光った。
そして、僕はもう1人の「英雄」の方を向き、
「ロイ」
「ん?」
「助けてくれて、ありがとう」
その言葉を聞いたロイの顔は、炎のように、赤い色をしていた。