第一話「真夏日狂想」
愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。
愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。
けれどもそれでも、業が深くて、
なほもながらふことともなつたら、
奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。
愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、
もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、
奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。
中原中也『春日狂想』より
1
思えば遠く来たもんだ。照り付ける日差しの割に湿った空気。ミンミン、ジジジ、と鳴り止むことのないノイズ。遠くの空では山に盛り上がった雲が、なお成長を続けながら、こちらを窺っている。こんな不快な暑さは故郷に無かった。
今日の外気は30℃を超える真夏日となった。陽炎が揺れる光景に、見るからに暑そうな黒スーツと黒手袋をまとった男がいる。2mに届きそうな身長にスーツ越しからでも分かるガタイのいい肉体は、この国に不釣り合いだ。さらに彫りの深い顔立ちが、それをますます裏付けている。
だがその表情は陰鬱だ。それはこの場所が墓地であり、彼の両手には控えめな花柄で覆われた"何か"が抱えられているということを考えれば自然だろう。問題は彼の周りに同じような黒装の人間がいないということだ。
彼は俯き"何か"を見つめた。それ以外に見るものが無かった。目の前にいる墓場の管理人は、やたらと饒舌で目を合わせる気になれなかった。
「これよりご案内する合同墓はXXX年の歴史があり――」「管理はこちらでいたしますので後継者様がいらっしゃらなくても――」「ご遺骨はXX回忌までお預かりしてその後は合葬に――」「後に故人様のみのご遺骨は取り出せませんので――」
全く頭に入ってこなかった。ふと手にしている何かを手放したくない気持ちになったり、やっぱり所持していても意味がないので手放して構わない気持ちになったり、そうした感情の乱高下を馬鹿らしいと考えたり妥当だと考えたり、ひたすら堂々巡りを続ける思考で彼の頭はいっぱいだった。
「――こちらが納骨室となります」
気付けば、男は大きな墓石の前にいた。いや、墓石というより石の小屋だ。表側は献花台と石のモニュメントが堂々と飾られているが、裏側にはひっそりとした扉がある。管理人が扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ、薄暗い先に幾つもの骨壺があった。
納骨室の中は涼しかった。彼は桐箱から骨壺を取り出し、他のものと一緒に並べる。その瞬間、急に未練に襲われた彼は、骨壺から手が離せなくなっていた。
骨壺を見つめ、しばらくの間、思考する。だが、やがて諦めたように手を離すと、それを一瞥して納骨室を後にした。再び、熱い空気がじっとりと纏わりつく。
「お別れはお済みですか?」
外で待っていた管理人が湿気を含ませた声で尋ねる。もちろん、それはわざとそうしているのであり、それを感ずいている男にとって、それは不快でしかなかったのだが。だが先ほどの、うるさい思考から一転し、空虚で満たされた彼にとって、そんなものは些細なことだった。
彼は言葉を発することもできず、ゆっくりと頷いた。それを確認した管理人が、ゆっくりと扉を閉める。もう、どうにもならない。それはもう、彼の手を完全に離れて行ってしまったのだ。
彼は茫然と立ちすくむ。膨大な虚しさが彼を覆う。空蝉のように気の抜けた彼を見かねて、管理人が声をかけた。
「よかったら、この後、手を合わせていってください。少し時間が経って、ふと今日を思い出したら、花を手向けに来てください。そうすれば故人様も、きっと報われると思いますよ」
そんな言葉を聞いたような、聞いてないような気がした。男が次に意識を向けた時には、そこに管理人の姿は無かった。
2
男は墓石の表に回った。眼鏡をかけた長い黒髪の女がそこにいた。彼女は白い日傘に白いワンピースを纏っており、それらが夏の日差しを眩しく反射していた。手には何輪かの花を抱えており、彼女も墓参りに来たということが容易に想像つく。
彼女は男と目が合うと、穏やかに笑みを浮かべて会釈した。だいぶ、ふくよかではあるが、なかなかの美人だ。男もそれに釣られて、ぎこちなく会釈する。やがて彼女は、今さっき男が出てきたばかりの墓石に近づき、手に抱えていた花を献花台に手向けた。
男がじっと彼女を見つめていると、彼女は再び男と目を合わせ、にっこりと笑った。どう反応すれば良いか分からずに立ち尽くしている彼を横目に、女は墓石に向かって手を合わせる。
女は思ったより長い間、手を合わせて墓石を見つめ続けている。男はいても立ってもいられず彼女の横に並び、見よう見まねで墓石に向かって手を合わせた。それを横で感じた女は、彼に向かって言葉を投げる。
「あなた、この国のお墓参りは初めて?」
しばし間を置いて、男は答える。
「そうだけど、あなたは、この墓に、よく訪れるんですか」
「そうね……なんだかんだで、よく、ここに花を手向けに来ているわ」
また、しばらく時間を置いて、男が口を開く。
「俺は異国の人間だが、つい先ほど、この墓に、妻を納めたんです」
女は男の方を見やる。しばらくして男も女の方を振り向くと、ふと彼女の重ねられた手の左薬指に、小さな指輪が嵌められていることに気付いた。
「実はね、私の主人もここで眠っているの」
じりじりと照り付ける日差しの中、一筋の風が吹き抜けた。女がにこやかに言葉を紡ぐ。
「ねぇあなた、この陽気の中その格好じゃ暑いでしょう」
「一緒にお茶でもいかがかしら?」
男は妻に別れを告げた直後に逆ナンされた。
3
「私はアイスの和紅茶、彼にはアイスコーヒーをたっぷりサイズで、それから、シロノワールとコメチキひとつずつ」
女は喫茶店のメニューを流暢にオーダーする。男は何を言うこともできずに、大きな身体をちょこんとすぼめて、彼女を窺っている。明らかに気を遣っているようだ。それを見かねた女は、ふふっ、と朗らかに笑った。
「そう気にしないで。誘った手前、たくさん奢らせてちょうだいな」
ここまで手厚くもてなされると、さすがに何か裏があるのではないかと男は警戒する。なかなか気を許さない彼を見て、女は困ったように苦笑いした。
「言っちゃ悪いけど、同属のよしみよ。あなたも私も未亡人でしょう。勝手に可哀そうに思って、勝手に同情しちゃっただけ。それで、勝手にあなたを心配に思っちゃっただけ」
「心配、とは?」
「あなた、奥さんを弔ったばかりのはずなのに、他のご家族もおらず一人でしょう? それもこんな異国の地で。心配にならない方がおかしいわよ、どういう経緯があったのかしらって」
「初対面のあなたに、何故、それを話さなければ、ならないのですか」
女は、ぐぬぬ……と苦虫を噛み潰したような顔になった。そこへタイミングよく、オーダーした飲み物が運ばれてきた。アイスの和紅茶とたっぷりコーヒーが目の前に置かれ、カラン、と氷の融ける涼しげな音を響かせている。美味しそうに飲まれたがっている、それらとは裏腹に、男は訝しげな口調で告げる。
「今、このコーヒーを、美味しく飲める、自信がありません。俺は、同情も、何も求めていない」
「じゃあ、これからどうするの?」
「俺が、どうしたって、あなたの知ったことでは、無いでしょう」
カラン、また氷の融ける音がする。長い沈黙が二人を包む。それを破ったのは女の方だった。
「……私、分かっちゃった。この後、あなたが、どうするかって」
「きっと、その通りだと、思いますよ」
またもや沈黙が訪れた。女は、きまりが悪くなって俯いてしまった。しばらくすると、オーダーした食事が運ばれてきた。次に沈黙を破ったのは男の方だった。
「俺、行っても、いいですか? あなたの体格なら、これくらいの食事、食べきれるでしょ……」
「いや待って」
女は声を荒げて遮った。顔を上げて男を睨み付ける。そこには先ほどの朗らかな笑顔は微塵も感じられない。その眼光は、さながら殺し屋のような殺気を帯びていた。そして、男の目の前にあったコーヒーを掴み、だんっ、と机に叩きつけると、ドスの効いた低い声で静かに囁いた。
「食って逝きな、最期の晩餐だ」
4
シロノワールのアイスが融けるのは思ったよりも早かった。女は頑張って切り分けたが、食べる頃には無残に崩れた姿になっていた。バニラアイスとシロップを、べちょべちょにくっ付けた口で、女は自慢げに言った。
「私、シロノワール食べるの下手くそ選手権の優勝経験者だからね」
一方、男は、シロノワールを初めて口にする割に上品に食べていた。大きな体格に似合わず手先が器用なようだ。コメチキの方にも手を出した。男が付け合わせのレモンを手にして不思議そうに眺めていると、すかさず女がそれをぶん取った。
「かけたら殺すから」
「別に、構わないけど」
そうこうしているうちに食事は無くなり、最初に運ばれてきた飲み物が、わずかに残るだけとなった。一息ついたタイミングで男が口を開く。
「愛する人が死んだなら、自分も、死ななきゃならないんです。今の俺に、それ以外の方法が、思いつかない」
女は自分の和紅茶を見つめていた視線を男の方に向ける。初めて自らのことを話し始めた男に、彼女は内心、驚いていた。男は話を続ける。
「あなたも、きっと、そうだったはずだ。だから、俺を、引き留めなかった。でも、だからこそ、疑問なんです」
男は女の目をまっすぐ見つめる。その目は、これから死ににいく人間とは思えないほど、魂が座っていた。
「あなたは、何故、自殺しなかったのですか」
女は、その目に圧倒されてしまった。耐え切れなくなって視線を逸らし、外を見ると、遠い風景を眺めながら呟いた。
「そうね……業が深かったからかしら」
男は、意味がよく分からなかった。不服そうな顔していると、女は続ける。
「でもね、本当は今でも思ってるの。自殺しなきゃならないって。心の底で願ってるの。あの人のもとへ逝きたいって」
外が急に曇り始めた。やがて夕立がやって来そうだ。
「私ね、あなたみたいに強くない。だから色んな気持ちが邪魔して決断できないの。でもね、あの人が死んでから、私の中で思うようになったの……奉仕の気持ちにならなきゃならないって」
外では雷が鳴り始めた。女は男の方へ向き直る。
「私ね、殺し屋だったの。今は足を洗ったけど」
男は唇を開いた。雨の音がする。滝のような大雨の音だ。女は自虐的に笑って付け加えた。
「だから私、あなたのことも殺せると思ったわ。でも今、考えてみれば浅はかだったかもしれない。こんなに屈強なあなたが、一般人の訳ないもの」
だから、あなたに惹かれたのかもしれないわね、女が小さく呟いた後には、雨の音だけが残った。しばしの沈黙の後に、覚悟を決めて男が口を開く。
「俺は、傭兵だった」
女が男の顔を見つめる。男も女を見ているようだったが、その目線は遥か遠くにあるようだった。
「故郷は焼けた。幼い俺は売られた。生きる為に戦うしかなかった。それでも生きようと思った。俺には、たった一人の家族がいたから……"彼女"がいたから」
男はしばらく黙り込んでしまったが、やっとの思いで再び口を開いた。
「彼女が死んだとき、同僚に言われた。俺は強くなれるって。死を顧みない狂戦士になれるって……少し、そうなってみたい気もした。でも、それ以上に疲れてしまった」
少し間を置いて、続ける。
「この国出身のクライアントが気を利かせて、比較的、平和なこの国で安息を得るよう提案した。先ほどの墓も手配してくれた」
「……俺は、どうすれば良いと思う?」
やっと女の方へ焦点を合わせた男を、じっと女が見つめ返す。やがて女が唇を開くと、少し息を吸い込んで、こう提案した。
「ちょっとこの後、ホテル行かない?」
男は妻に別れを告げたその日にホテルに誘われた。
5
「ねぇ、私と手を組んで、殺し屋やりましょうよ!」
ホテルの一室。ふかふかのダブルベットに飛び込み、女は嬉々として提案した。
歓楽街は今日も賑わいを見せている。今日、愛する人を弔った人間が存在していることも知らずに。夕立が過ぎて涼しくなった夕べ、今日出会ったばかりの二人は、この熱狂的な街に飛び込んだ。筋骨隆々の美男を抱えて、女は終始、嬉しそうに歩いていたが、当の男は何が何だがさっぱり分からない様子で、引きずられていくだけだった。
話は戻る。適当なホテルに入室した二人は、その後ロマンティックな雰囲気になる訳でもなく、女の唐突な「殺し屋開業」提案があって今に至る。
「あなたが以前の同僚に『お前は死を顧みなくなった分、強くなれる』って言われたって聞いて、ピンときたのよ! そうよ私たち、死が怖くないわ! 何だってできる! 危険な殺し屋稼業だってできる! それどころか私たち自殺希望者じゃない! だれも受けないようなハードな依頼だって安請負しちゃうわ! これじゃ依頼が引っ切り無しよ! どうしてもっと早く気付かなかったのかしら……」
興奮気味に話す女をよそ目に、男の方はホテルのエアコン兼ラジオ兼アラーム兼ライトスイッチに興味津々だった。ありとあらゆるボタンに触れては、部屋に訪れる変化を楽しそうに眺めている。そのせいで部屋の照明は明滅をくり返し、落ち着かない。だが女は、そんなことを気にも留めずに話し続ける。
「あなた元傭兵だから戦闘能力はあるだろうし、私これでも元殺し屋だからノウハウがあるわ! 二人合わせたら最強ものよ!」
男があるボタンを押すと、部屋全体が暗くなり、足元の照明だけが点灯した。顔が不気味に照らされる中で、男は尋ねる。
「なんで、唐突に、殺し屋になるって、話をしだしたんだ」
「だってあなた、聞いたじゃない。俺は、どうすれば良いと思う、って!」
「まさか、その話をするために、ここに、連れてきたのか」
「そうよ、だってこんな物騒な話、コメダ珈琲で出来ないじゃなーい!」
そう言うと、女は唐突にライトスイッチのあるボタンを押す。部屋全体がレインボーに照らされる。さらに彼女は横に寝ころんだままワンピースの裾を持ち上げ、ふくよかな太ももを露にさせると、いやらしくウインクして男を誘惑する。
「それとも、ここでお話以外のことをシたいのかしら? あなたみたいな男前なら、私、悦んでお相手するわよ?」
「それが、未亡人の口から、出る言葉か」
「いやーん、私だって長年、男に飢えているのよ! 独り身を慰めてくれる男が欲しいの!」
「俺は、勃たないが?」
不快で耐え切れなくなった男がライトスイッチの適当なボタンを押す。今度は部屋全体が赤く照らされた。これはこれで扇情的だ。
「話は戻るが、あなたは、夫が死んでから、奉仕の気持ちになる、と言っていた。それは、他人を殺めない、ということを、含んでいないのか」
「えっ、他人を殺めないことが、どうして奉仕の気持ちになるのよ。人間、いずれ死ぬんだから良いじゃない。それどころか、誰かが殺してほしいと思う人間を殺してあげることは、立派な奉仕じゃない?」
男は何か思う所があったが、あえて言わなかった。その代わり、ライトスイッチのボタンを押す。天井からミラーボールが降りてきて回り始めた。
「そもそもの話、だ。俺は、この国が、平和だと聞いて、やって来た。殺しの依頼は、あるのか」
その時、厚い壁越しに、うら若い少女の悲鳴が聞こえてきた。「やめてください、それだけはやめてくださいぃぃぃぃ! ――っ、」直後に大きな打撃音がして、少女の悲鳴は途切れた。
「……ね。この街、意外と物騒なのよ」
女は慣れたように説明する。そして、にへらと笑って男に試すように尋ねる。
「ちなみにだけど、ここであの女の子を、なんとかして助けてあげたいと思ったかしら?」
「いや、全然」
「あなた、殺し屋の素質あるわよ」
6
「だが、決め手に欠ける」
男は不服そうに告げる。女も不服そうに応じる。
「何よ、あなたから『どうすれば良い』って聞いてきた癖に」
「俺が、殺し屋になるのは、良い。ただ、あなたと、組む理由が、見当たらない」
「は? あんたが一人で依頼を獲得できると思ってるの?」
「百歩譲って、俺が、あなたを、必要としている、ということにしよう。あなたは、何故、俺と組む? もともと、一人で、殺し屋を、こなしていたのだろう?」
「そりゃあ、惚れた弱みよぅ……」
男は、目の前でデレデレしている女を殴りたい衝動に駆られた。それは不快だったということもあるが、殺し屋だったと言う女の手並みを拝見したいという思いもあった。だが理性で必死に抑えた。
その時、部屋の電話が鳴った。男はびっくりして肩をすぼめる。一方、女は慣れた手つきで電話の受話器を取ると、あーとか、うんとか言って、電話越しの相手と話しているようだった。その最中、ふと受話器を離し、男の方を向いて尋ねる。
「どうする? もっと話したいことがあれば延長するけど」
「いや、今はいい。少し、考えさせてくれ」
その言葉を聞いて、女は再び受話器を耳に当てる。すいません、はい、それでお願いしますと言って、電話越しの見えない相手に軽くお辞儀をした後、彼女は受話器を置いた。
「もうここ、出るわよ」
女が振り向いたとき、男は枕元の小箱から"正方形の小袋"を見つけたようで、おお、と感嘆していた。名残惜しそうに肩を落として部屋を出る男を引っ張って、女は夜も更けた歓楽街へ繰り出した。
二人が歓楽街を歩いていると、前方に人だかりができていることに気付いた。近づくと大勢の不良たちの怒声と、ドカバキと殴り合いの喧嘩をする音が聞こえた。どうやら複数のチームで抗争が起きているらしい。
「何だ、邪魔だな。道が、塞がっている、じゃないか」
「えっ、行っちゃうの?」
男は構わず、ずかずかと人だかりに突っ込む。女も逸れないようにスーツの裾を掴んで、彼に付いていく。人混みを掻き分けた先、ついに抗争の最中へ顔を出すと、男は立ち止まり、両チームの面々を睨み付けた。
凄まじい殺気が辺り一帯を包む。抗争を行っていた面々は、さすがにその違和感に手を止めると、引きつった顔で大柄な男を見上げる。不良たちは静かに捌けるかと思われた。
だが男の後ろ。こっそり付いてきた女が、不良の一人に手を掴まれている。
「この女に手ェ出されたくないなら、大人しく失せろ」
男は振り向いて不良と女を見る。女が必死で笑いを堪えているのが分かった。
「好きにしろ、俺はここを通る」
男は、ぷい、と女から顔を背けると、ずかずか不良たちの間を歩き始めた。
「えっ、何で行っちゃうのよ! 待ってよぅ~!」
女が甘えた声を出す。その瞬間、ドゴンと物が壊れる音がして呻き声が聞こえた。それには、さすがの男も振り返る。見ると、女の手を掴んでいた不良がアスファルトにめり込んでいて、破片が周りに飛び散っていた。いつの間にか両手が空いていた女は、ついに笑いを堪えきれずに噴き出してしまった。
「ぶっ、貧弱~!」
怒りに耐え切れなくなった不良の一人が、唸り声をあげて女に殴りかかる。だが拳が女に触れた途端、その不良は遠くに弾き飛ばされ、壁に当たって崩れ落ちた。女は微動だにしなかった。
それを皮切りに、全ての不良が一斉に女に襲いかかる。
「きゃ~、助けて~w」
男は一斉に女のもとへ駆け寄る不良たちに揉まれそうになった。それを予感した瞬間、彼も女のもとへ駆け寄り、真っ先に女の腕を掴んだ。そして女を引っ張り上げようとするが、女は想像より遥かに重い。鉛の塊を持ち上げているようだった。
それでも男は気合で女を宙に浮かせ、砲丸投げのように女を振り回す。襲いかかる不良たちが、次々に弾き飛ばされていった。
「め~が~ま~わ~る~」
7
「……うぷっ、吐く」
その言葉を聞いた瞬間、男はぴたりと動きを止めた。宙を回っていた女が止まり、ドゴンと地面に落ちてアスファルトにめり込む。その頃にはもう、全ての不良は壁際でうな垂れていた。
一歩、離れた場所から様子を窺っていた観衆は、唖然としている。だがやがて、何事も無かったかのように散れていくと、変わらない歓楽街の日常が戻ってきた……いや、複数チーム同士の抗争ぐらい、日常茶飯事なのかもしれないが。
アスファルトにめり込んでいた女が、がばっと起き上がると、乱れた髪を直しながら男に声をかける。
「いやー、初めての共同作業ね。壮観だわ」
「あなたは、もう少し、ダイエットした方が、良いんじゃないのか?」
「あら、あなたこそ。私を軽々、持ち上げられるように、もう少し鍛えた方が良いんじゃなくって?」
男は、ふっと笑った。初めて見せる彼の笑顔に女はドキドキしたが、その想いは心にしまっておいた。その代わりと言っても何だが、女は男に問いかける。
「ねえあなた。そういえばまだ、あなたのお名前を聞いていなかったわ。この機会に教えてくださる?」
少し間を置いて、男は答える。
「俺は、ケインス。ケインス・オルドーシャンだ。あなたは?」
女は、うーんと考える素振りを見せると、こう答えた。
「私はデコピナーの妻よ。呼びづらいから、デコ妻で良いわ」
「俺は、本名を教えたのに。これじゃあ、アンフェア、じゃないか?」
「えー、しょうがないなぁ。それじゃあ、本名、教える?」
デコ妻はケインスに耳貸してと告げる。ケインスは大きな身体を曲げてデコ妻の口元に耳を近づける。デコ妻は両の手で口元を隠しながら、ケインスの耳に何かを囁いた。
「うーん、なんだか、在り来たりすぎて、パッとしないな……逆に、覚えづらい」
「そうでしょう? 名付け親には悪いけど、私、この名前、あんまり好きじゃないのよ」
「デコ妻さんって、呼んで良いか?」
「もちろんよ」
デコ妻は得意げに笑ってケインスを見つめる。そして彼に右手を差し出して……指輪を嵌めていない方の手を差し出して、こう提案した。
「はい、ではケインス、握手をしましょう」
ケインスは着けっぱなしの手袋を外して、ごつごつとした素手を露にさせる。そうして彼の右手は、デコ妻の右手をがっしりと掴んだ。
~つづく~
中原中也よりも、宮沢賢治の方が好きです。
中原中也先生、ごめんなさい!