第28話
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「……あれが師範たちの本気かよ」
門下生のニックがつぶやいた。その場にいた全員が同意したように頷く。
いまトリステンの入り口では人が集まって来ていた。理由は単純。夕食後のゆっくりできる時間帯に聞こえてくる轟音の正体を確認するためだ。
アルバートが集まって来た人間にヨーゼルとマリーが稽古をしている最中なんだと説明すると、人だかりの大多数は少しの間その場に立ち止まるだけですぐに帰っていった。
森に阻まれているせいでヨーゼルとマリーの戦闘を直接見ることができないので、飽きて帰るのは当然のことであった。だが、大半が帰るなか門下生たちはどこからかテーブルと椅子を持ってきて酒盛りを始めていた。
「やっぱりあの二人化物ねぇ」
「あそこまで本気でやってたら怪我しそうですから、それだけ心配です」
「その心配は無用でしょう。師範も師範代も、そのあたりは憂慮して稽古をしているはずです」
「……それにしては本気でやりすぎな気もしますけど」
門下生たちはヨーゼルとマリーのどちらが勝つか。そんな賭け事もしている始末。だが、ヨーゼルと日ごろから積極的に交流しているニック・シーシャ・リルティ・ゲイツの4人は珍しくバカ騒ぎをせずにゆっくりと酒を飲んでいた。
「アルバート、それにエルザって言ったか? お前たちも一杯どうだよ」
「俺はいま酒を飲むわけにゃいかねえ」
「……私も今日は遠慮しとく」
「……そ、」
エルザとアルバートは決闘の見届け人であるため酒を飲むわけにはいかない。そのことを説明したわけではなかったが、酒を誘ったニックは何かを理解しているようだった。
アルバートがエルザの横顔をちらりと見る。いかにも不安ですという顔を見せるエルザにアルバートは話しかけた。
「いかにも不安ですって顔だな。そんなに二人が心配か?」
「心配に決まってるよ。得物が真剣かそうじゃないかなんて、あの規模の戦闘をする人間には些細な差だもん。一歩間違えたら本当に死んじゃう」
「なら止めるか?」
「止めたいよ。でも、止めたからって事態がよくなるわけじゃない。決闘以上にあの二人を納得させられるものを私はいま用意できてない」
「……お前、変わったな」
ぼそっとつぶやいたアルバートの言葉にエルザは反応に困ってしまう。
「え……?」
「昔のお前はよくも悪くも損得を考える奴じゃなかっただろう。できるできないじゃなくて、やりたいからやる。そんな人間だったはずだぜ、お前は。どこでそんな中途半端に頭が回るようになったんだよ」
「……相変わらず嫌な言い方するね、アルバートって」
変わったな、という言葉がエルザの胸に刺さった。自分自身変わった自覚があるし、この街に住んでいたころでは想像できないものを見てきた。
その結果、苦しむヨーゼルとマリーのもとへ駆け寄れなくなったのだとしたら......エルザにとっては受け入れたくない変化だった。
2人の会話を聞いていたシーシャがニヤリと笑みを浮かべる。
「あら、やっぱりアルバートって昔から素直じゃないのね」
「おい、どういうことだ」
「いやはや、三つ子の魂百までと言いますからな。人間はそう変わりませぬ」
「ってことは、アルバートは三つの時からこんなやつだったのかよ。教会に通うあいだまでだぜ、あの態度が許されるのは」
「待てよ、エルザに便乗して俺をけなすんじゃねえ」
「……アルバートさんって悪い人ではないですよね。いやーな言い方はしますけど。特にヨーゼルさんに対して」
さすがに我慢ができなくなったのか。アルバートが強めに文句を言ってやろうとしたとき、ヨーゼルとマリーが戦っている方角からとてつもない気配を感じる。
アルバートが振り返った視線の先、竜を思わせる巨大竜巻が空を喰わんと首を長くのばしていた。
★★★
マリーの大技で遥か上空に吹き飛ばされたヨーゼルは、身体に走る鈍い痛みで覚醒した。
先生に気絶させられていたか、と急いで目を開ける。だが、ヨーゼルが目を開けて見えたのは家や病院の天井ではなく爆心地のように森にポッカリと大きな穴が空いている光景だった。
「これは……?」
疑問に思ったと同時。ヨーゼルは浮遊感を感じて、いま自分が遥か空の上にいることを理解する。夢を見ているのか、と思ったが。穴の中心に険しい顔をしたマリーがいることに気付き現実であることを悟る。
───だとしたら、一体なにが?
これが現実ならば一体何が起こったのか。ヨーゼルは考えを巡らせる。
ヨーゼルが覚えている最後の光景は、膝をつき動けなくなった自分に止めを刺すために、マリーが薙刀を振り上げた姿だ。そのことを考えると、地面に叩き伏せられているのなら分かるが、いま自分が空中にいる理由が分からない。
加えて、森にぽっかりと空いたあの巨大な穴。あれほどの破壊規模を生み出せる人間はの場においてマリー以外にいない。しかし、いかにマリーといえどこれほどの範囲を破壊するには『大蛇』を最大規模で行使して巨大な竜巻を引き起こす必要がある。
つまりマリーは本気を出したのだ。膝をついて動くことのできない自分に。不可解極まりないとヨーゼルは思った。
少し観察するとマリーは幾分か消耗していることが分かった。第三者が介入した可能性を考えて、周囲の気配を探ってみるがそれらしいものは感じない。やはり、マリーからそれほどの攻撃を食らい自分は空の上にいるということなのだろう。
少しでも情報はないか、と記憶を掘り返したとき。マリーに止めをさされる直前、ある一文が頭に浮かんだことを思い出す。
『───汝は、切望されし我らが神なのだから』
その一文を口にして、ヨーゼルは皮肉げに笑った。
何が神だ。この街に魔獣をおびき寄せ、ゴードンやミシェル、レイドやアリス達を危険に晒した。その上、ギドキア解放戦線と名乗るテロリスト共とも関わりもあるらしい。
仮に、自分が本当に神ならば、大切な人だけでいいから幸福にしたい。そんなことすら出来なくて何が神だろうか、と。ヨーゼルは自嘲する。
───俺は誰かを幸福にできたのだろうか
人の助けが無ければとうに終わっている人生だった。兄が自分をマリーのもとへ届け、マリーが自分を育てることを決め、孤児院のみんなが受け入れてくれて生きながらえた命だ。
ヨーゼルは少しでも恩返しがしたかった。絶対に迷惑をかけたくなかった。だから、この街を出ることを決めたのだ。
そして、もう一つ思い出したことがある。マリーが薙刀を振り下ろした、あの瞬間。
『負けてはならない』
そう思っていたことを。
ヨーゼルは目を細めてマリーの姿を見据える。マリーはこちらが上空にいることには気付いていないようだ。マリーに木刀を弾き飛ばされたはずだが、何故か木刀はヨーゼルの手の中にある。今ならば上から奇襲を仕掛けることができるだろう。仮に反応されたとしても、≪天羽々斬≫を放てば問題ない。
そう考えてヨーゼルは腰に手をかけるも、そこで初めて鞘がないことに気付く。鞘は先ほど粉々に砕けたのだと思い出してヨーゼルは歯噛みした。
ヨーゼルの居合≪天羽々斬≫は魔術とよく似た構造をしている。ゆえに、魔術と同じくいくつかのプロセスを踏まなければ発動できない。プロセスを無視することもできるが、そんなことをすれば≪天羽々斬≫が不完全なものになってしまう。そうなれば確実にマリーから手痛い反撃をもらうことになるだろう。
その上、目覚めた直後の酩酊感で先ほどまで身体の感覚が鈍っていたが。いまは感覚がはっきりしてきてヨーゼルは身体に蓄積したダメージを痛みと疲労によって理解し始めている。
身体が引きちぎれたかのように痛い。気絶する前より、明らかにダメージを受けている。つまるところ、ヨーゼルはもう≪天羽々斬≫を一回放つ程度の体力しかない。だというのに、必要不可欠な居合を放つ為の鞘がない。
もうすぐ、ヨーゼルの身体が自由落下を始める。≪空土≫で空中に居続ける体力すらいまのヨーゼルにはない。
他に打つ手はないかとヨーゼルが考えたとき。
左手に冷たく硬い感触を覚えた。火照った身体に冷たさがじんわりと伝わる。なんだか懐かしいような気がした。
ヨーゼルが左手を見ると、そこには鞘があった。ヨーゼルが普段使っている鞘に似て、飾りっ気のない無骨な鞘。しかし、その鞘は一言でいえば異様だった。
氷のように冷たく色は純白で、見ていると豪雪地方の雪景色を思い出す。そして不思議なことに白い粒子を纏っていた。
『なぜこんなものが』『この粒子はなんだ』と疑問は尽きない。しかし、この手に鞘があるという事実と勝てるという確信がヨーゼルの疑問を打ち消した。
木刀を鞘に入れて、鞘を腰に差して腰を落とす。空中で居合の構えを取えたとき、ヨーゼルは自分の内側から力が溢れ出すのが分かった。木刀がいつもより手に馴染み、頭の中でカチッと歯車が噛み合う、そんな感覚がした。
今までの人生で、最高の一撃が放てる。
そんな確信を以って、ヨーゼルは大気を蹴り加速した。
★★★
風が収まりようやく視界が晴れる。マリーは構えを解いてハッとした顔をして焦ったように周囲を見渡した。
追い詰められたとはいえ、マリーはヨーゼルに本気で技を放ってしまった。周囲に散在するへし折られた木々を見れば人に使っていい技でないことは明白だ。
そんなことは使用者であるマリーが一番理解している。だというのに一番大切な人間に使ってしまった。
「ヨーゼル!!! どこにいる!!!」
返事はなかった。
マリーがヨーゼルと戦ったのは、この街に留めておくためだ。決して傷つけるためではない。まして殺すためでもない。
しかし、結果として。死んでもおかしくない威力の技を放ってしまった事実にマリーは顔を青くした。
マリーは視覚だけではなく感知能力を用いてヨーゼルを探す。自分が感知できる範囲にいない、そのことにマリーは舌打ちをする。早く見つけなければ。
───ヨーゼルが死んだら、私は
嫌な想像が頭をよぎり吐きそうになるのをマリーはなんとか我慢する。吐いてる場合じゃない、そう自分にいい聞かせた。走り回って探すしかない。そう考えてその場から離れようとしたとき。
上空に、今まで感じたことがない気配を感じた。マリーは咄嗟に視線を上に向ける。
月が、2つあった。夜空に爛々と輝く白い月が2つ。その1つがヨーゼルであることに気付いたマリーは安堵を覚えたと同時に異様な雰囲気に目を見張る。
不気味に煌めく白い月と全てを飲み込むような深く暗い夜空。それらを背負ってヨーゼルは居合の構えを取っていた。白い粒子を纏った、その姿は。神話を描いた絵画のように力強く神々しい。
そうやってマリーが惚けていた間にヨーゼルは空を蹴る。
数拍遅れて、マリーはまだ勝負は終わっていないことに気付く。大気を操って周りで倒れている木々を浮遊させる。一度回転して薙刀で円を描くと、木々がそのまま上空へ向けて高速で射出された。数十本に及ぶ太い幹がヨーゼルの前に立ち塞がって、マリーを守る分厚い要塞と化した。
だが、それは飛翔する白い流星を止めるに能わず。
全てが斬り伏せられる。
マリーを守る木の要塞は一つ残らず切り裂かれてマリーまでの道が一直線に空いた。そのまま、ヨーゼルは白い流星のまま地面へと落下して砂塵が巻きあがった。
しばらくして視界が晴れる。
晴れた視界の中、互いの得物が互いの首につきつけられていた。
引き分け、ではない。
「私の負けだ」
ヨーゼルの方が数瞬早かったことをマリーは感知していた。ため息をつきながらマリーが一言つぶやくとヨーゼルの身体がぐらっと揺らぐ。
マリーは慌ててヨーゼルを抱きとめる。ヨーゼルの身体は予想していた以上に大きく重かった。ヨーゼルの身体に力が入っていないことに気付き、マリーはヨーゼルをゆっくりと地面に下ろす。仰向けに寝かせてマリーはヨーゼルの顔を覗き込んだ。ヨーゼルはマリーを見上げて笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。支えてもらってなければ、顔から地面に倒れていました」
ヨーゼルは笑いながらマリーにお礼を言った。
「礼はいい。それより、身体に異常はないか」
「体中痛いですけど、致命傷はなさそうです。骨も折れているところはないかと」
「本当か? 本当になんともないか?」
マリーの必死な表情を見て、ヨーゼルは安心させるように柔らかい笑みを浮かべて首を横に振る。
「先生が気にしているのは、あの白い粒子ですか?」
マリーが少し迷ったあと頷いた。
「それも気になるが、そうじゃなくて……とりあえず聞くがあれは何だ?」
「分かりません。今まで、あんなものが出たことは一度もなかったので。おそらく、」
「お前の記憶喪失に関わっている、か」
ヨーゼルが頷く。そして自分を覗き込むマリーの瞳を見据えた。
「先生、俺の過去には間違いなく何かあります。このままでは、あなたや街のみんなに迷惑をかける。俺を行かせてください」
マリーはヨーゼルの瞳を見つめ返す。ヨーゼルの瞳からは強い決意と覚悟の裏にひどい不安の色が見て取れた。何に対しての不安なのか、そんなもの考えるまでもない。
そんな目を向けられたくなかった。そんな風に心配されるほど弱い自分が情けなかった。
「……お前は本当に強くなったんだな」
弱い自分と違い、ヨーゼルはこの10年で見違えるほど強くなった。誰よりも強くて、誰よりも賢く、誰よりも勇敢で、誰よりも優しい。
本当にできた息子だ。弱く脆い自分とは不釣り合いなほどに。
「ええ。10年かけて、こんなにボロボロになって、ようやく一本ですけど……先生?」
ヨーゼルは自分の顔に熱いものが落ちてくるのを感じる。マリーの瞳には業火が宿っていた。ゆえに、その瞳から流れる雫はとてつもない熱が宿っているのは、ある意味当然な話なのかもしれない。
「私は、なにもかわって、いない。弱いままだ。アレンが死んだときのままだ」
まるで母親に怒られて言い返せずに泣きじゃくる子供のようだった。言葉は嗚咽混じりで、顔は涙で濡れている。
「私は……1人では生きていけないんだ。お前がいないと生きていけない弱い人間なんだよ。武芸ぐらいしか、取り柄が無い女だ。それも、今日お前に負けたことで取り柄とも呼べなくなった」
「先生……?」
「お前は、死ににいくつもりなんだろう? 帰ってくるつもりなんてないんだろう?」
マリーの問いにヨーゼルは目を伏せる。
「それは……」
「前に同じ顔をしたやつを見たことがある。軍人だったそいつは、ギドキアから戻ってこなかった」
マリーは、己の恋人をギドキアへ送り出した。その恋人は帰ってくることはなく、死んだことだけがマリーに伝えられた。
「送り出すとき、私は引き止めることができなかった。軍からの出兵命令をどうやったって取り下げることはできない、そんな建前を自分に言い聞かせた。だが、本当は」
唇が震えていた。吐き出したいものがあるのに人目を気にして我慢している、そんな様子だ。ヨーゼルは右腕をなんとか持ち上げて安心させるようにマリーの頬を撫でる。
気にしなくていいから、とヨーゼルは笑いかける。そうすることで、ヨーゼル自身も思い詰めていた自分の心がほどけるのを感じた。
頑なにトリステンを出ようとするのではなく、始めからこうすればよかったのだとヨーゼルは笑う。
マリーは嗚咽をひどくしながらもゆっくりと話し始める。
「私は、私が弱いことを知られたくなかった。側にいて欲しい、そう言えばよかった。死ぬぐらいだったら、軍を辞めて私と一緒にいて欲しかった。だが、私はそれを口にできなかった。弱い自分を知られたら幻滅されるんじゃないかと思ったんだ。そんなことにこだわった結果、私はライルを死なせてしまった」
泣き腫らした顔をしたマリーはヨーゼルの顔に触ろうとして手を引っ込める。自分には触れる資格などないそう言わんばかりに。
「お前に会ったのはそんなときだ。死のうと思った雪山の中でお前を抱えたバレンと出会った。どんな事情があったのか分からないが、バレンはお前を私に預けて去っていった……私は死ねないと思った。せめてお前を信用のおける人間、ゴードンたちのところへ送り届けるまで死ぬのは待とうと思った。でも、トリステンにたどり着くまでの間にお前と過ごした時間がこの上なく幸せだったんだ。お前に好かれてると思う度に、自分に存在価値があるように思ったんだ。それで、私がお前の母親になることを許してくれた瞬間、私の中で死にたい気持ちが無くなった……私にとってお前は生きる意味そのものなんだよ」
マリーは顔をうつむかせる。
修練の果てに災害に匹敵する現象を引き起こすに至った、女傑。しかし、その表情は不安と後悔に圧し潰されかけ血が通っていないかのように青く弱々しいものだった。
「でもな、アレンが私の元から去った理由を知ってからお前を幸せにできていた自信が無くなったんだ。お前は本当によくできた息子で私なんぞにはもったいない……私は! お前に幸せにしてもらった!!!」
マリーはとうとう顔を覆って叫ぶように泣き始める。
「なのに私はお前に苦労をかけてばっかりだ!!! アレンのことで苦労をかけた、トリステンに住み始めたときは貧乏で苦労をかけた、私が酒で酔っぱらったときは介抱をさせた。お前はそれらすべてに1度たりとも不満を口にしたことはない。しまいに私は自分の意地を張って、お前がこうなるまで追いつめて……たのむ、ヨーゼル。私は価値のある人間じゃない……それは分かってる。だが、こんなひどい女だとしても一緒にいてくれ。私はお前がいないといきていけない。お前に死んでほしくない」
ヨーゼルは力の入らない手を一生懸命伸ばして、顔を覆うマリーの手に伸ばした。ゆっくりとマリーの手を顔から引きはがして、ヨーゼルはマリーの左手で優しく握った。
マリーが泣きはらした顔でヨーゼルを見つめる。
「先生、俺は早い段階であなたが俺に隠し事をしていることに気が付いていました。そのことに悩んだことはありますし苦しい思いもしました。でもですね、少なくとも先生は今まで俺に対してそのこと以外は誠実で優しかった───先生、俺には選択肢がいくつもありました。ただ生きるためならば、この街を離れて旅をするでもいい。例えば、エルザの旅についていってもよかった。彼女とならば、きっと旅も楽しいものになるでしょうから」
穏やかな顔で、穏やか声で、思い出を噛み締めるように、ヨーゼルは話す。
「だけど、俺はそうしなかった。俺があなたと一緒にいたかったからです、先生……俺も同じですよ。記憶を無くした俺にとって、先生は俺の全てでした。先生と過ごした毎日が本当に幸せで、俺がどれほど救われたのか、先生は知らないでしょう。少しでも俺は恩を返せているといいのですが」
マリーはいつもヨーゼルを助けてやりたかった。だが、そんな内心とは裏腹にヨーゼルは人の助けがいらないほどに強く賢く優しい人間だった。
だから、マリーはいつも不安だった。ヨーゼルの助けになれているのか、と。しかし、それは杞憂だったらしい。
「ああ、十分すぎるくらいだ。しかし……そうか。私はお前の役に立てていたんだな。お前があまりにもしっかりしていたから、私はいなくてもいいんじゃないのかと思ってた」
「そろそろ怒りますよ。自分を卑下しすぎです」
「もうしないから怒ってくれるな」
少し顔を歪ませたヨーゼルに、マリーは笑顔を向けた。
「なぁ、ヨーゼル」
ふと、マリーが呼びかけた。声の震えはもうなくむしろ穏やかな様相だ。ヨーゼルはマリーの顔を見つめる。
「そばにいてくれ、と言っても。お前は行くのだろう?」
ヨーゼルは頷いた。マリーの思いを知って全く揺れなかったと言えば嘘になる。しかし、ヨーゼルは確信していた。自分の過去が大切な人間に被害を及ぼしかねないものであることを。
「ならば、生きてくれ。私より長く生きてくれ」
マリーは、ヨーゼルの左手を両手で包み込む。そのまま頭を下げて左手の前で目をつむった。まるで、神に祈るかのように。
このまま行かせてしまえばヨーゼルとは二度と合えない。死んだ恋人と同じ顔をしたヨーゼルを見てマリーはそう感じていた。それはヨーゼルが死ぬからなのか、それとも別の理由によるものなのか。今のマリーには分からない。
だから、せめて。
マリーはヨーゼルに生きて欲しいのだ。希望があれば、自分も生きていけるから。そんな依存した考えを悟ったのか、ヨーゼルも目を閉じた。しばらくの静寂のあと、ゆっくりと口を開く。
先生、と。
「全ての問題を片付けて、あなたの元に戻ってきます。必ず、どんなことがあっても。どんな姿になっても」
マリーは勢いよく顔を上げる。ヨーゼルは戻ってくるつもりはなかったはず。さきほど問いかけた時も否定しなかった。だから、ヨーゼルの顔が死を覚悟をして戦場へ赴いた恋人と重なって見えたのだろう。
しかし、今は違う。
───なぜ、あいつと重なったんだ?
マリーは確かめるようにヨーゼルの顔を見つめる。吸い込まれそうになる綺麗な瞳に、月明かりに照らされた白磁のような肌。申し訳ないが、死んだ恋人はヨーゼルほど顔は整っていない。どの角度から見ても、似ても似つかない。違う人間なのだから当然だ。
いまさらそんな当たり前のことに気付きマリーは心底安堵した。なぜヨーゼルが死ぬと思ってしまったのだろうか。いまのヨーゼルからはそんな気配は微塵も感じない。
もしかして、ヨーゼル自身が生きることを考えてくれるようになっただろうか。マリーは自然と涙が流れる。先ほどの悲嘆にくれたものではない。心から安心してしまったときに流れる、塩辛なくない涙。
「ありがとう」
マリーはヨーゼルの頬に触れてゆっくりと撫でた。眠りについた子供を起こさないようにするが如く。
「ヨーゼル、愛してる」
突然の言葉に、ヨーゼルは面食らった顔をした。酔っぱらった拍子で口にしたあの時とは違う。万感の思いが込められた言葉にヨーゼルの心が熱くなる。
「お前の母であることを、生涯の誇りとしよう」
真っ直ぐで純粋で嘘偽りのない言葉だった。ヨーゼルの瞳からも雫が流れ落ちる。この10年間で初めて流した涙だ。
「俺も先生を愛しています。今までも、これからも。あなたの息子であることを何よりの誇りとして生きていきます」
マリーがヨーゼルの目元を拭おうとするとヨーゼルが手で払いのけた。ヨーゼルが恥ずかしがっているのだと気付いたマリーは二ヤリと笑みを浮かべる。
「動くな、指が目に入ったらどうするんだ」
「それなら目に触れようとしないでください」
「涙を拭ってやろうとしているだけだ」
「結構です。そもそも泣いていません」
「強がるな。泣くことぐらい誰にでもある。私だってそうだ」
先ほどまでの悲壮げな雰囲気はどこへやら。マリーはいつものように開き直ってヨーゼルが泣いたことをからかおうとする。
そんなマリーに、ヨーゼルは少しだけムカッときた。
「……私は武術しか取り柄のない人間だ」
弱々しい口調で吐かれたセリフにマリーが顔を歪める。
「おい、私の真似をするな」
「私は、価値のある人間じゃない……」
「止めろと言ってるだろう」
「師範!!! よーくん!!!」
木々がなぎ倒され地面が抉られている、そんな爆心地のような場所で。ボロボロになったヨーゼル、そしてヨーゼルの口を抑えようとするマリーのもとにエルザの声が届く。近づいてくる二人分の足音。
決闘後とは思えないほど和やかに密着していた二人はさすがにこれを見られるのは恥ずかしいと思ってすぐに離れる。その直後にエルザとアルバートが二人の元へ現れた。
アルバートは周囲の惨劇具合に面食らった表情をする。対照的にエルザは周囲の状況に一切目もくれずヨーゼルとマリーのところへ一目散にやって来た。
エルザはヨーゼルとマリーの間に飛び込んで二人を強く抱きしめる。突然のことにヨーゼルとマリーは驚く。
「エルザ?」
「よかったっ……二人とも生きてる」
ヨーゼルとマリーの肩に顔をうずめるエルザから嗚咽交じりの声が聞こえてきた。
「ふたりが決めたこ、と。だか、ら、仕方ない、と思ってた、けど……はぁ。二人とも本気でやりあってたからもしかしたらどっちかが死んじゃうじゃないかとおも……ッ。もう、喧嘩しないで仲良くしてよぉ」
わたし仲いい二人が大好きなんだよぉ。
その言葉を皮切りにエルザは子供のようにわんわんと泣きだす。マリーはエルザの後頭部に腕を回してギューッと抱きしめる。
「もう、喧嘩はしてない。大丈夫だ。心配か、け……」
先ほどまで泣いていたせいか、エルザの涙に感化されたマリーの目に涙がたまる。
「うっ……エルザ、本当にすまなかった。お前も大変だったろうに私は責めるようなことを……ッ」
「せ"ん"せ"ん"き"に"し"て"な"い"で"す"----。し"は"ん"と"よ"ーく"ん"が"な"か"な"お"りし"て"よ"か"った"-----!!!」
泣きだした二人はお互いを強く抱きしめた。
二人はもともととても仲のいい師匠と弟子だった。トリステンに下宿先を持ちつつもマリーとヨーゼルの家に頻繁に泊まっていたエルザは、マリーにとって娘も同然であったのだ。
だが、ヨーゼルの件もありその二人の間に確執ができていた。それが元に戻ったことにヨーゼルは心の底から安堵する。
「(もう二度とこのような光景を見れないと思っていたのに)」
まだ希望を捨てるべきではないんだな、と。ヨーゼルが静かに希望を持っていたところにアルバートが近づいてくる。
体を起こすことができないヨーゼルのそばに腰を下ろしたアルバートが、いまだに泣き続ける二人を横目にヨーゼルに話しかけた。
「ずいぶんこっぴどくやられましたね」
「ええ、しばらくは立てそうにありません」
「でも、決闘の前より元気そうに見えますよ。抱えてたもんは降ろせましたか?」
「全てではないですが。おかげで、俺は本当に大事なものをあきらめずにすみそうです」
「そりゃあ僥倖です。それで、あんたと師範どっちが勝ったんですかい?」
「俺が勝ちましたよ。近いうちに俺はこの街を出ます」
「そりゃあ少し寂しくなりそうだ」
「あとでまた話すことになると思いますが、あなたに師範代の位を与えるつもりです。俺がいない間は頼みますよ」
「先の話ばっかり考えるのはあんたの悪い癖っすよ。それよりもすぐにやるべきことがあるでしょう」
「先にやることって?」
「あんたの治療ですよ」
そう言って、アルバートは倒れたヨーゼルに肩をまわす。ヨーゼルはアルバートの力を借りて立ち上がった。
「その次はあんたが師範に勝った祝賀会、次はあんたが旅に出るから送別会……やるべきことはたくさんあります。どれもあんたが主役だ。欠席は認めませんぜ」
「……俺が旅に出るのはもう少し先になりそうですね」
戦闘中に見えた白い粒子。間違いなく普通の力ではない。もしかしたら、これがソフィアの言っていた悪魔の力かもしれない。
「(これがヒビキたちが自分を狙った理由だろうか)」
自分の過去には間違いなく何かがある。マリーと仲直りができたとはいえ、未だに問題は何一つ解決していない。
自分の過去が変えられない以上、いまと未来に立ち向かわなければ自分は大切な人たちと一緒にいられないのだ。
決闘前はそのことに絶望さえ覚えたが、いまはすっきりとした気分だった。
「師範も立てますか。肩貸しますよ!」
「大丈夫だ。私は軽傷だからな」
「そう言わずに」
目元が赤くなっていた二人はすでに泣き止み、ヨーゼルが立ち上がったのに合わせて立ち上がる。断られても肩を貸そうとするエルザと満更でもなさそうなマリーにヨーゼルは声をかける。
「街に戻りましょう。治療がすんだらみんなでご飯を食べましょう。にぎやかな食卓が俺は一番好きです」