第24話
マリー・ドレアは大切なものを三度失っている。
一度目は恋人であるライル・グース。彼はルディウス共和国の軍人だった。最初に出会ったのは街中で軍人と揉め事を起こしたマリーの事情聴取をライルが行ったときだ。事情を聴いてみれば、しつこく迫ってきた憲兵をマリーが投げ飛ばしたらしい。
軍人がちょっかいをかけた女性に投げ飛ばされたという醜聞を隠すためにも、その件は正当防衛として話が進んだ。無事釈放されたマリーは自分の発言を誠実に聞いたライルに興味を持ち、ライルも女の身で一人旅をするマリーに興味を持ったことがきっかけで二人は恋人になった。
二人の間を引き裂いたのは一つの内戦だった。ルディウス共和国の南、ギドキア連合で起きた政府軍と反政府軍の内戦は激化。共和国は連合からエネルギー資源の輝晶を輸入していたこともあり内戦鎮圧のために共和国軍を派遣することを決定した。
『マリー、この内戦が終わったら結婚しよう』
ギドキア連合に派遣されることが決まったライルが旅発つ前にマリーへ言った。マリーを心配させまいとライルらしくない満面の笑みで。
『待っている』
そうマリーは答えた。マリーもまたライルを引き留めてしまわないようにできうる限りの笑みで。
だが、現実は残酷だった。右手が吹き飛んだことで共和国へ帰って来たライルの同僚が、マリーに彼の死を告げに来た。茫然自失としたマリーはその日の夜に血を流した。
ライルとの子供が死んだ。それがマリー経験した二度目の喪失だった。
それから数年後にトリステンでパトリック・プライドという婚約者を失ったこと。それがマリーの三度目の喪失だ。2人の出会いはパトリックが落とした財布をマリーが拾ったことが始まりだ。
物腰が柔らかなパトリックは、共和国にある大学を卒業して省庁に勤めていたエリートだった。パトリックは出向という形でトリステンの役所に勤めることになったらしく、突然田舎にやってくることになった都会育ちの彼をマリーはできるだけ気にかけた。
最初は凄い人だな、と思ってマリーは接していたのだがある日パトリックに食事に誘われた。断る理由もなかったのでマリーは承諾し、それから何回か食事を重ねたあと交際を申し込まれたのだ。ヨーゼルのことも知った上で申し込んできたらしい。
ヨーゼルのことも受け入れてみせる、と啖呵を切ったので付き合うことにしてヨーゼルにも紹介した。頭がいい同士、話も合うみたいだったのでマリーはとても嬉しかったのを覚えている。
物事は順調に進み、付き合い始めて2年。突然、風向きが変わった。もともとパトリックは首都の省庁から期間限定でトリステンの役所に働きに来ていたので、その期間が終われば首都に戻らなければならない身分。
だが、パトリックはその期間が終わった後に省庁を辞めてここに残るつもりらしかった。トリステンでマリーとの結婚も考えているとも言っていた。
しかし、出向期間のおわりが近づいていたころ二人で酒を飲んでいたときにパトリックが省庁へ戻ると小さく口にしたのだ。酒の席での言葉とはいえ、トリステンで三人一緒に暮らしていくつもりだったマリーは驚いた。変なこといってごめん、とパトリックはすぐに言ったのでその場では何もなかったが、翌日からパトリックがよそよそしくなっていった。
『私が何かしたのか』『何とかするから教えてくれ』
マリーが何度聞いてもパトリックは理由を説明してくれない。
気が付けば、出向期間が終わりパトリックは首都に戻って行った。その時の辛さをマリーは言葉にできない。今まで受けたような世界の理不尽なら耐えられた。だが、パトリックがいなくなった原因は自分にあるとしか思えなかった。だというのに、その原因が分からない。
自分の何が駄目なのか分からない。その辛さはマリーがそれまで感じた辛さとは別種のものだ。しばらくして、マリーはその理由を知った。
発端はふと思い立った蔵の整理だった。その時はヨーゼルがいなかったこともあり一人で蔵の中を見ると、隠されるように置かれていたヨーゼルの日記を見つけたのだ。記憶を失ったヨーゼルにとって、日記とは再び記憶を失ったときのための保険であった。
毎日様々なことを書くヨーゼルの日記の数は家の中には置き場がないほど膨大だ。かといって、保険である日記を処分するわけにはいかない。
そういう理由で蔵に日記を置いているのだなと考えたマリーだったが、隠れるように置かれていたことといくつかの日記の背表紙に赤い印がつけられていたことが気になった。最初は見るつもりはなかったのだが、自分がヨーゼルにどう思われているのか知りたかったマリーは印のついた日記を一つ手に取ってみたのだ。
そこに書かれていたのはマリーにとって信じることのできない衝撃的な内容だった。
『ここ最近、パトリックさんの俺と先生を見る目が変わった。どうやら先生はパトリックさんの変化に気付いていないらしい』
『マークから孤児院に来る前のことを聞いた。マークはいわゆる母子家庭で、生活は貧しかったようだがお母さんと一緒に楽しく暮らしていたらしい。ある日、マークのお母さんが新しいお父さんだよと人を連れてきたそうだ。最初は優しかったその人は、日を追うごとにマークに冷たくなり最終的に邪魔だと言ったらしい。マークのお母さんもだんだんとマークに構わなくなっていき、それが理由でマークは捨てられて孤児院に来ることになったのだと教えてくれた。新しい生活に子供は邪魔になってしまうものなのか』
『俺と先生が話しているとき、パトリックさんはあの目をする。きっとあれは疎外感を感じている目だ。俺は2人の邪魔をしているのかもしれない』
『クラウス先生から法国へ留学しないかとお誘いを受けた。しかも、俺の学費の免除されるように取り計らってくれるらしい。渡りに船とはこのことかと思った。法国に行けば俺は最高の環境で最高の教育を受けることができる。そして、先生とパトリックさんの邪魔をする人間はいなくなる。先生が幸せになれるのだ。それは分かっている。でも、俺はクラウス先生のお誘いに即答できなかった』
『任期が終わり、パトリックさんは何も言わずに帰っていった。先生は何事にもないように振舞っていたが、寝ているときに「どうしてなんだ」とうわ言のようにつぶやいていた。俺はどうしたらいいのか分からなかった』
『こうなるかもしれないと分かっていながら俺は何もしなかった。この街にいたかったのだ。先生のもとにいたかったのだ。だが、俺という人間が先生を不幸にするかもしれない。もし、俺が原因で先生が悲しむのなら次こそは先生のもとから去るのだ。俺にとって一番は何なのかは分かっている。このことは何があっても忘れてはいけない』
最後まで読み切る前にマリーは一人声を上げて泣いた。パトリックの気持ちに気づけなかった自分の情けなさに、情けないせいで最愛の息子に辛い思いをさせた自分の不甲斐なさ心の底から許せなかった。
これらの喪失はマリーに深い傷を残した。未だに思い出すだけで涙が浮かぶほどに辛い。何度死のうと思ったか分からない。だが、それでも彼女を生きているのは───
『あなたは何かに縋らなければ生きていけないのだから』
★★★
久方ぶりに聞いた声にマリーは飛び起きた。飛び起きた拍子にマリーの目から暖かいものが流れる。夢を見て泣く日が来るなんて思わなかった。
服の袖で目元を拭ってベットの傍に立てかけた薙刀を手に取る。別に意味がある行動ではなかったが、こうしていた方が自分の心が落ち着くのだ。マリーがこのことを知ったのは一人で旅をしていたとき。もう10年以上も前になる。
いまマリーはトリステンの宿屋に一人で泊まっていた。魔獣によって家の壁に穴が開けられたため、一時的に寝泊まりの場所としてここを使っていたのだが門下生たちのおかげで壁の穴は昨日のうちに綺麗にふさがれている。それでもマリーが宿屋で寝泊まりしているのは、理由があった。
理由は単純。ヨーゼルと顔を合わせたくなかったからだ。いまのマリーとヨーゼルは決闘を行う言わば敵同士。いくら親子と言えど、自分の意見を押し通すために矛をぶつけ合う人間が決着をつける前に仲良くするわけにはいかない。
ヨーゼルもマリーと同じく曖昧な決着を求めていなかった。ゆえに、ここ数日ヨーゼルとマリーは互いに顔を合わせないように動いているのだ。
そのような事情があり、マリーは一人でヨーゼルとの決闘の準備を進めているのだがマリーの調子は生涯を通した中で一番悪い。しかし、技のキレが悪いわけではない。技のキレにムラがありすぎてマリー自身も自分の状態を把握しきれていないのだ。
「(初めてだな、ここまで感情が乱れてるのは)」
マリーの脳みそを入り乱れる色んな感情と思考が技のキレに表れていた。これほど自分の心が不安定だったことはマリーには無い。耐えがたい悲しみ、どこに向けたらいいか分からない怒り、そして全てが報われたと思えるような喜びのどれか一つを、今までマリーは常に抱えて生きていた。
だが、今は一番弟子に本気の試合を申し込まれた嬉しさ。そのヨーゼルに絶対に勝たなければならないという決意。自分が危険な場所に行くことを厭わないヨーゼルへの怒り。そして、ヨーゼルの顔を見たときに浮かぶ後悔と悲しみが脳内で混ざり合う。
そんな不安定な感情の中心にいるのはヨーゼルだ。自分の全てにかけて守ると決めた最愛の息子が、最愛の息子だからこそマリーの心をかき乱していた。
『マリー、この内戦が終わったら──』
かつて死んだ恋人のライルから言われた言葉。どうして今さらと思うほど昔に言われた言葉が、ライルとヨーゼルの二人の声で再生される。
頭の中でそんな現象が起きている理由をマリーは理解している。自分の死を確信したヨーゼルの顔が、戦場に向かう直前のライルの顔とそっくりだったからだ。
ライルの顔はお世辞にもヨーゼルほど整っていない。だが、肉体は精神の器だ。己の死を確信した人間の表情は似ることもあるのだろう。
そして、まったく違う顔が胸に抱く想いで重なるほどに似てしまうということは。それほど強い想いを胸に抱いたということに他ならない。
「(何が何でも止める)」
マリーはヨーゼルを死なせたくなかった。マリーはこれ以上大切な人間を失ったら生きていける気がしないのだ。
親ならば子を信じる。そんな御託を並べて後悔するぐらいならマリーはヨーゼルの代わりに死んでしまいたいとさえ思う。
『あなたにはヨーゼルが必要でしょう』
恋人と子が自分の手から零れ落ちたことで生きる希望を失ったときに出会った少年、バレン。ヨーゼルの兄である彼の言葉を思い出し、頷きながらマリーはベッドから立ち上がった。
ヨーゼルとの戦いは明日の夜。できるだけコンディションを整えるために、マリーは一人稽古に向かうのだった。